日々の抄

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 木曽の御嶽山爆発

2014年9月30日(火)
 
 木曽御嶽山の突然の爆発で多くの犠牲者が出たことはあまりに痛ましい。
土曜日だったことから、家族で、職場の同僚と、友人と、恋人同士で250名を超える登山者がいたという。
 もし、週末でなかったら、犠牲者は少なかったかもしれない。7合目までリフトを利用して3000メートルを超える日本百名山を登れる容易さが登山者を多くしているらしい。
 御嶽山の突然の爆発による犠牲者は、爆発による噴石の衝突、降灰・噴出ガスの吸引など、どれを考えても想像できない苦しさがあったに違いない。

 犠牲者の数がつぎつぎに増えていく報道の中、テレビの報道番組のコメンテーターの中には、なぜ爆発を予知できなかったのか、GPSをなぜ使わないのか、などとヒステリックに見当違いなことを語っている人物もいる。日本中で110もある活火山の中で観測網をもつのは47数座だけという。
 御嶽山も観測を続けているが、今回は爆発を予知できなかった。亜硫酸ガスの臭いが強くなったとか、噴煙が出始めていたなどという事後の地元民の報告はあるが、火山爆発予知として明示的に爆発を示すものはなかったという。
 御嶽山は1979年にも爆発を起し、150キロの離れた前橋にも降灰があった。これだけの犠牲者を出しながら、なぜ予知できなかったと責めることが妥当なら、危険レベル1の活火山も、すべて登山禁止にするしかない。自然現象を、人間の浅知恵で簡単に診断できるなどと思うことは間違いである。
 爆発3日後の29日の段階で、死者12名、心肺停止24名と報じられているが、3日間も救援されず心肺停止とはどういうことなのか分からない。
 自衛隊、消防、医師団等の二次災害が起こらないことを祈るのみ。濃度の濃い亜硫酸ガスを吸い即死した例が群馬県でもあった。
 
 御嶽山の突然の爆発ですぐに思いを起こしたのは、今冬にも再稼働するとされる九州電力川内原発に50キロもの近くに、頻繁に噴火する桜島があることだ。
 どうしても、川内原発を全国の原発再稼働の引き金にしたい政府、財界は、今回の噴火と、巨大噴火リスクとで、被害規模や発生頻度が大きく違うので同一視できないというだろう。水蒸気爆発の御嶽山と、蓄積したマグマが大量に噴出して火砕流の到達距離が100キロを超えるカルデラ噴火とは、「発生頻度」が違うという。火山学者によると、巨大なカルデラ噴火は日本列島ではおよそ1万年に1度の頻度で発生してきたというが、もし桜島が爆発したした場合、南九州一帯に及ぶような破局的な被害をもたらすというのが定説とされている。

 爆発の発生頻度が違うから、心配に値しないと考えるのは安易であり、地域住人の命を軽んじているとしか思えない。東日本大震災も千年に一度の地震というが、現に地震発生から3年経過しても震災直後の何ら変わらない破壊された地域があり、自宅に戻れない住民が大勢いるのはどういうことなのか。震災復興に力を入れます、などと威勢のいい言葉を政治家は発するが、復興予算を全く関係ないところに流用して心の痛みを感じもしない政治家、官僚がいることを考えれば、火山爆発による原発事故を現実の問題となぜ考えないのか不思議でならない。
 為政者は、まるでオストリッチ症候群(現実を見て見ない振りをする症状)にかかっているのではないか。原発事故の被害対策は半径10キロ範囲だけでいいいなどと聞こえてくるが、福島から150キロも離れた群馬県に今も放射線が毎日のように降り注ぎ、赤城山の大沼にワカサギ漁ができないことをどう思っているのだろうか。
 桜島噴火の予兆があった場合、原発稼働を停止したとしても、残された核燃料棒が火山によって侵されれば、九州全体に生活の不都合さを長い間及ぼすことになることは、容易に想像できる。今、進行しつつある、福島第2原発で起こっている、原発を廃炉にできない数々の不都合が、川内原発で起こったらどのようなことになるかを想像することが、なぜできないのか。できないのでなく、したくないのではないか。

 原油が高く、日本経済を圧迫しているから原発再稼働が必要だと、原発再稼働賛成者は声高に言っているが、原油が高いのは、円の価値が下がったことや国際情勢の悪化の影響だということを知るべきである。
 川内原発を再稼働しようとするにあたって、原子力規制委の田中委員長は「安全だということは私は申し上げません」として、審査を通ったとしても事故のリスクは残ることを認め、「再稼働は事業者、地域住民、政府の合意でなされる」と述べて、規制委は原発が新基準を満たすかどうかだけを判断することを強調した。地元の鹿児島の伊藤知事は「エネルギー政策は国の責任」とし、安倍政権は「規制委が基準に適合すると認めた原発は再稼働を進める」とし、再稼働の責任の所在を互いに擦り合っているのはあまりに不正義で、事故が発生した場合の責任転嫁をしている。

 9月12日になって、原発事故が起きた場合「政府は責任をもって対処する」など、地元不安に配慮した表現を明記し、再稼働への地元同意取り付けの地ならしを進めたい考えのようだが、政府とは誰なのか。
 福島原発事故で、あれほどの被害がありながら誰一人として責任を問われていないことを考えれば、この場合は、国だとか、政府と言わず、「安倍晋三が責任を負う」と、個人の責任を明らかにすべきではないか。

 また、“核のゴミ”の問題を検討してきた日本学術会議の分科会が、9月26日、「原発の再稼働を判断する際、新たに発生する核のゴミを暫定的に保管する施設を電力会社の責任で確保することを条件とすべき」という報告書をまとめているが、然りである。原発再稼働で累積される、核のゴミ処理を担保できないかぎり、目先の利益を求め、将来に負担を負わせることは許されないことである。
 
 地球温暖化による化石燃料使用量の抑制、原発稼働による将来への負担を考えれば、御嶽山が、「ひとはもっと謙遜になれ、思い上がるな。自然が人間のためだけにあるのでないことを知れ」と教えているような気がしてならない。大容量の電力を要するリニアモーターカーを使って、時間を稼いで何になるのか。もっと時計の針をゆっくり回せる国民生活を考えなければならないのではないか。

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