日々の抄

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 「表現の自由」は正義か

2015年1月20日(火)

   パリで起こった、イスラム教の預言者ムハンマドへの冒涜とされる風刺画が、仏週刊新聞「シャルリー・エブド」に描かれたことへの抗議とする一連のテロで17名の尊い命が失われた。「シャルリー・エブド」襲撃犯人は、犯行直後「神は偉大なり」と叫んでいたという。
 犠牲者を追悼する大規模な反テロ行進が11日、パリ中心部の共和国広場周辺であった。表現の自由への脅威とテロがもたらす社会の分断が懸念される中で、オランド仏大統領や、メルケル独首相、キャメロン英首相ら50カ国以上の首脳が腕を組んで歩き、結束を訴えた。仏紙フィガロ(電子版)は130万〜150万人が参加したと報道。現地メディアは1944年8月にドイツの占領からパリが解放されて以来の人出だと伝えている。

 襲撃された「シャルリー・エブド」の関係者は,「犯人はユーモアを失っていた」。「人々はユーモアの知性を持っている。テロリストにはユーモアがなかっただけだ」と述べたと言う。フランスでは、歴史的に,「表現の自由」が重んじられているという。
 襲撃後も,「涙のムハンマド」なる風刺画を発刊し,これが通常の80倍も売れたそうだ。襲撃されても,なぜ襲撃されたか、などお構いなしに,「相手は描かれたことを喜ばないだろうが,自分たちは表現したいだけ」と発言している。
 
 はたして,描かれる相手のことは考えず,自分たちには表現の自由があるのだから,という考えが妥当なのだろうか。世界中でイスラム教関係者の,風刺画に対する抗議のためのデモが起こり,そのことによる死者も多数出ている。チェチェン共和国では、80万人もの抗議デモが行われたと伝えられている。
 国内の新聞社は,襲撃後に出された風刺画「涙のムハンマド」を,朝日,毎日,読売は,「特定宗教,民族への侮辱を含む表現と判断,イスラム教徒が世界に多数いる以上,慎重に判断が求められる。社会通念や状況を判断する」などの理由で転載せず,東京,日経,産経,共同通信の各社は,「識者に判断してもらう材料とする。読者へ問題の判断材料を提供するため。読者の知る権利に応える責務がある」などとして転載している。ドイツでは,転載したことによる新聞社襲撃事件が起きている。
 
 「表現の自由」が保証されているというが,同紙は,福島原発事故直後に,『3本の手がある力士と3本の足がある力士が土俵上で向き合い、防護服姿のリポーターが「すばらしい。フクシマのおかげで相撲が五輪競技になった」と中継する内容。また、別の風刺画では、防護服姿の2人が放射線測定器と思われる機器を手にプールサイドに立つ姿を描き、「五輪プールはフクシマに建設済み。おそらく(防護用の)ジャンプスーツ着用が水泳選手に許可されるだろう」』との説明を付けている。
 この風刺画が、どれほど日本国民、特に東北の人々を傷つけただろうか。風刺画は、描かれる対象が、自分に責任がなく、自らの努力で解決できない事象を、面白半分に揶揄することで描かれてはならない。こうした風刺画が「表現の自由」だなどと考えていることは、相手の人格に対する敬意の欠片もない、思い違い、奢りである。描かれる側が、「ユーモアを理解してない」などと、見下ろし目線で考えている傲慢さは、「表現の自由」を標榜する人物の人格を疑う。
 
 フランスでは「表現の自由」が重んじられているというが,「おれはシャルリー・クリバリのような気分だ」として,襲撃された週刊新聞の名にちなみ、連続テロに抗議する合言葉となった「私はシャルリー」と、ユダヤ系食材スーパーで人質4人を殺害したとされるクリバリ容疑者を組み合わせた表現を,フェイスブックに書き込んだ仏風刺芸人を、当局は14日に一時、拘束した。
 風刺画に表現の自由があって,フェイスブックへの書き込みの自由がないということは,ダブルスタンダードではないか。
 
 テロが認められないことはいうまでもないこと。いかなる場合も,暴力で自己主張をすることは認められない。罪もない婦女子を誘拐したり,女性の社会的進出,教育権を主張しただけで,銃の標的になることなど論外である。なぜ暴力で問題を解決しようとするのか,の根本問題を考えなければなるまい。民族的,宗教的,社会的格差,偏見および貧困が大きな原因とされる。
 
 
 従来の平和,生命の尊重などの,世界の秩序をつくったさまざまな概念の亙解が顕著になっていると考えるべき時が来ている。二十世紀後半、エリク・エリクソン(1902~1994)が認知させた「アイデンティティ」なる概念が命題のように思う。アイルランド人でありながら、書くことの自由を求めて、パリで生きた劇作家のサミュエル・ベケット(1906~1989)の生き方を穿ったものも、アイデンティティの問題だったという。フランスにあって大戦下の対独レジスタンス運動にくわわったベケットに、書くことの自由を導いたのは、戦後すぐからのフランス語による創作だった。彼は,「存在とはなにか、無知、不能、貧窮に徹するとはどういうことか-そういう題の表現にもっと直接的に集中する自由」を、フランス語によってあたえられたとしている。また,フランス語より、さらにずっと書くことの自由を、与えられたのは、「沈黙」だった。「言葉にしてしまうとどんなことも実際の経験とはまったくちがうものになってしまう」。「ほんのちょっとでも雄弁に語ろうとすると耐えられなくなるはずだ」。その「沈黙」は、「存在」の表現としての沈黙という。

 現代の不条理を描いたと称される,ベケットによる戯曲『ゴドーを待ちながら』で語られる「ゴドー」は,神、救い、運命、幸福、革命なのか。ベケットは「存在」がアイデンティティーであり,この戯曲は「共生」を意味すると語っている。同時に,エリクソンも,「アイデンティティーとは,他者なしにはあり得ない自己である」としている。

 アイデンティティーとは辞書によれば,「自己証明,同一性。ある人の一貫性が時間的・空間的に成り立ち,それが他者や共同体からも認められていること」とある。キリスト教社会での,一方的な「表現の自由」は,他宗教,民族への敬意を持たぬ一方的な発想で,「他者へのアイデンティティーの欠如」であるとともに,自らの「アイデンティティーの過剰」というべきではないか。今回の風刺画はやりすぎであると言わざるをえない。
 
 テロは容認されるべきではないことは繰り返しておきたい。だが,イスラム教では,偶像を崇拝せず,神や預言者の像を描くことは認められてないこと、イスラム教徒は風刺画によって侮蔑されていると受け止めていることを、風刺画が表現の自由と主張している人々は知るべきである。罪なき国民が理由なく、報復の犠牲になることは許されざることである。

 テロリストが「神は偉大なり」と叫んだ神は、罪なき人も殺傷することを認める神なのか。イスラム教とテロリズムは別物であることは再確認しておかなければなるまい。

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