日々の抄

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 何のため70年談話なのか

2015年8月9日(日)

 村山、小泉談話に続いて戦後70年として、安倍首相が談話を14日に出す予定という。
 安倍氏は村山、小泉両談話を「全体として引き継ぐ」といっているが、「侵略」「植民地」「反省」「おわび」の言葉がない限り、70年談話を出す理由がない。両談話から後退して談話が出されるなら、何のために出されるのか理由が分からないし、何を引き継ぐというのか。
 また、これらの言葉を求めている近隣諸国から反発が考えられ、出さなくてもいい談話によって、現状より関係をさらに悪化させることは十分想像できる。

 昨年、全国戦没者追悼式での式辞で、安倍氏は二年続けて「不戦の誓い」という言葉を使わず、「アジア諸国への加害と反省」も語らなかった。また、13年4月、国会で「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と発言している。侵略の定義について国際法上、様々な議論があるのは事実としても、「他国に侵入してその領土や財物を奪いとること」が侵略であることは広く理解されていることではないか。1931年の満州事変以降の旧日本軍の行動は明らかに侵略である。他国が同様の行為をしているのに、日本の行為だけを「侵略」と断定することに異論を唱えていては国際的な信頼を得ることはできない。
 ことし6月、安倍氏は先の大戦に関する「おわび」や「植民地支配と侵略」の表現を談話に盛り込むことに否定的な立場を取り、公式色を薄めて首相の個人的見解の色合いを濃くすると伝えられていた。

 
 安倍氏は、近隣諸国に対する「反省」の意思表示はするものの、「おわび」はしないという。安倍氏は、反省をしているから、「おわび」はいらないと考えているらしいが、「反省」と「おわび」は異なることを知るべきである。

 「反省」は加害者が自分自身に対して批判的な評価を与え、自ら思うだけのこと。「お詫び」は「過失の許しを求めること」で、相手に対する意思表示である。「おわび」がない限り、本心で反省していることにはならない。「反省」していることが、相手に伝わるはずと思うのは全くの思い違いである。
 
 安倍氏は米議会で、第2次世界大戦の戦没者を追悼する記念碑の訪問を踏まえ、「深い悔悟」の念を表明し、「日本国と、日本国民を代表し、先の大戦にたおれた米国の人々の魂に、深い一礼をささげる」と演説している。「米国の人々」の「米国」を、「アジア諸国」の具体的な国名に置き換えて70年談話が発せられれば、未来志向の談話となりうるかもしれない。
 
 先の大戦についての日本政府の見解は、村山、小泉両談話で確立している。これから後退するような談話が、安倍氏だけの私情として述べるものになるなら、国益に反するものであり、70年談話を出す意味がないし、出すべきではない。閣議決定しない談話は、首相を辞めてから、自費出版した手記にでも書けばいいことだ。
 
 そもそも70年談話は、何のため、誰に対して出されるのだろうか。

 
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