日々の抄

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 生まれることの選別なのか

2015年11月27日(金)

 教育施策を話し合う18日の茨城県総合教育会議の席上で、女性である長谷川県教育委員は障害児らが通う特別支援学校を視察した経験を話すなかで、「妊娠初期にもっと(障害の有無が)わかるようにできないのか。4カ月以降になるとおろせない。(教職員も)すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」意識改革しないと。技術で(障害の有無が)わかれば一番いい。生まれてきてからじゃ本当に大変」「茨城県では減らしていける方向になったらいい」と発言したという。
 会議後、長谷川氏は、出生前診断の是非などについて「命の大切さと社会の中のバランス。一概に言えない。世話する家族が大変なので、障害のある子どもの出産を防げるものなら防いだ方がいい」などと話したという。

 このことが報じられ、反発の声が伝わると、長谷川氏は次のようなコメントを出している。
 「この度の私の総合教育会議での発言により、障害のある方やご家族を含め、数多くの方々に多大なる苦痛を与えましたことに、心からお詫びを申し上げますとともに発言を撤回させていただきます。
 言葉足らずの部分がありましたが、決して障害のある方を差別する気持ちで述べたものではありません。反対に、生徒さん達の作品を拝見し、多様な才能をお持ちでいることも理解しており、美術の世界で、もっとお手伝いができるのではないかと思いました。また、生まれてきた子どもたちの命は全て大切なものであると考えております。」と述べている。
 
 長谷川氏は、「問題発言」 → 「今後は、教育委員として今まで以上に研鑽(けんさん)を積み、よりよい茨城の教育の推進のために微力ながら力を尽くしてまいりたいと考えております。」と謝罪するも辞職するほどの問題と受け止めてない → 「私の発言で県内外の皆さまから数々のご意見を頂き、県の教育行政に大きな影響を与えてしまったことを重く受け止めている、として電話で知事に辞職申し出」 → 「辞職」

 長谷川氏の問題発言の会議に同席した県知事は、
 「医療が発達してきている。ただ、堕胎がいいかは倫理の問題」「事実を知って産むかどうかを判断する機会を得られるのは悪いことではない」
 → 「私の発言が障害のある方々あるいは関係者に苦痛を与えたとすれば、誠に遺憾」と自身の発言を撤回
  → 「(一部報道に対する)私の発言が障害のある方や関係者に不快感や苦痛を与えたことを反省するとともに、福祉・教育行政に全力で取り組む」

 と、時間経過とともに発言が変わっている。本人は当初、長谷川氏の発言に問題があったと思ってなかったらしい。「 … 障害のある方々あるいは関係者に苦痛を与えたとすれば誠に遺憾」、などと 「 … とすれば」の仮定法は謝罪したことにならない。また、「遺憾」は「残念、気の毒」の意味があり、「いけないこと」でなく、謝罪したことにならないことを知るといい。

 各方面から、「優生思想の正当化だ」「親が大変そうだからというなら、負担を減らすために社会ができることを考えるべきでは」といった批判が伝えられてきた。

 「五体不満足」の著書がある作家で東京都教委の乙武氏は長谷川氏の発言を訊いて、「私も生まれてこないほうがよかったですかね?」と述べている。この言葉を長谷川氏も県知事もどのように訊いただろうか。この言葉にどれほどの悲しみと怒りが込められているか知ることができるだろうか。
 障害者が、社会から同情視されたり、存在を否定されていると感じ、悲しさを感じながら生きていることを自分のこととしてすべてのひとが受け取る社会でありたい。
 
 障害者に対して「 … すごい人数が従事しており、大変な予算だろうと思う」などと、金がかかるから障害者は生まれてこないようにしよう、それも茨城県では、などという言葉を発する人物が教育委員に任命されているとはまことに桿ましいことではないか。長谷川氏はパラリンピックを否定し、ホーキンス博士もピアニスト辻井さんも否定していることにならないのか。

 障害をもって生まれてきた人は生きる価値がないというのか。

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