日々の抄

       目次    


 5年目に思う

2015年3月11日(木)

 3.11 東日本大震災が発生してから5年が経過した。
 一度も母校に通うことなく卒業していった、中学、高校の卒業生の不自由さ、寂しさはいかばかりだろうか。また増加している避難生活での孤独死は無惨である。

 東日本大震災での死者15、894人、行方不明2562人(警察庁調べH28/2/10)、自宅からの避難者174、471人(復興庁調べH28/2/12)、福島県内の福島原発関連死1368名(東京新聞調べH28/3/6)に至った。

 地震、津波による地形が変わるほどの崩壊があったことに加え、福島第一原発の原子炉崩壊、メルトダウンによる、広範囲における放射線汚染は、広範囲にして甚大な被害を各地におよぼし、地域社会に壊滅的な打撃を与え、いまだ復興にはほど遠い状況が続いている。

 福島県によると、県内の空間放射線量は、
第1回調査(2011年4月12〜16日)では、毎時0.2マイクロシーベルト以上の地点数の割合が80.8%だったが、第8回調査(15年5月13日〜月10日)では、20.7%まで減少。毎時1.0マイクロシーベルト以上の地点も、第1回調査の22.3%から、第8回調査では1.1% まで減少した。

 測定地点で放射線量は減ったが、これは測定地点の表土を削り取るなどの除染をした結果であり、地域全体としては、除染した結果の放射線物質は、まとめられて一定の場所である仮の保管場所に移動しただけで、地域全体としては除染でなく移染であり、蓄積された放射線物質を中間保管施設から、最終処理場へ移動させるめどは全く立ってないのが実情である。

 東京電力福島第1原発事故で2014年4月以降に避難指示が解除された福島県田村市、川内村、楢葉町の3市町村で、解除地域への住民の帰還率が1割弱にとどまることが7日分かった。避難区域は、放射線量の高さに応じて帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域の3種類あり、3市町村の避難指示解除準備区域が14年4月〜15年9月に順次解除された。
 だが、3市町村で解除された地域の住民計7985人のうち、実際に戻っているのは745人で1割にも満たない。

 福島県民世論調査によると、放射性物質が「不安」68% 、廃炉作業も「不安」85%、復興「道筋ついてない」6割であった。また、朝日新聞の調査によると、東北3県では、プレハブなどの仮設校舎を使っているのは38校、他校や民間施設に間借りしているのは29校で、本校舎に戻れていない学校は計67校だった。42市町村では地震と津波、原発事故による避難で計165校が使えなくなったが、41%が復旧していない。新年度中に再建した本校舎に移転できるのは9校にとどまる見通しという。

 国がいかに避難指示を解除しても、所詮安全な場所にいる役人の机上の解除にしかでないことを地元民は知っている。なぜなら、除染が済んでいるからといっても、住居の20メートル範囲のみの除染にしかない。大人の歩幅で40歩ほどの範囲しか除染してないなら、散歩、子どもの遊ぶ範囲、椎茸の栽培、山菜採り、これみな高線量が怖ければ出かけるな、自宅内だけで生活できる範囲の帰還をしろ、といっていることに等しい。

 最近になって、やっとこれではまずい、もっと広げた生活圏を除染する必要があると気づいたらしいが、こんな簡単なことが震災5年後になってやっと分かったのか。理由は簡単だ。所詮政府、行政は他人事としか考えてないためである。関係者の自宅周辺が放射能汚染されていたら、20メートル範囲だけ除染したから、帰還するなどと考えまい。

 所轄する環境大臣が「年間許容放射線量1ミリシーベルトがまったく何の科学的根拠もなく決めた数値である」などという、世迷い言を平然といい、問いつめられると、「おそらく言ったのではないか」と認識した、などと釈明して発言を撤回しなかったものの、「目標を軽視しているかのような誤解を招いたとすれば、福島をはじめとする被災者のみなさまに、誠に申し訳ない」と謝罪し、愚かさを露呈しても、自尊心が先んじ、かつ「環境の日」を知らない大臣が所轄していて、まともな施策はできまい。

 一方で、東京電力は2011年の福島第1原発事故以降、核燃料が溶け落ちる炉心溶融を判断する社内マニュアルの存在に気付かず、今年2月になって「発見」したことは、今まで何度も国民を欺いてきた極みと言うべきだろう。原発の当事者が、多くの国民の命に関わる原発事故の事故マニュアルの肝心な内容を5年も経過してから、気づいたなどというウソを、よくも恥ずかしげなく言えたものである。彼らに原発を扱う資格があるとは思えない。

 東北地方の大震災は歴史的に繰り返されている。約1100年前にも巨大地震がおき、宮城―福島県沿岸部を中心に「貞観(じょうがん)津波」と呼ばれる大津波をもたらしたことが、産業技術総合研究所などの調査で判明している。福島第一原発を襲った津波を東電は「想定外」としているが、研究者は2009年、同原発の想定津波の高さについて貞観津波の高さを反映して見直すよう迫っていた。しかし、東電と原子力安全・保安院は見直しを先送りした。貞観津波クラスが、450〜800年間隔で起きていた可能性があるという。
 経済効果を人命より優先させた結果が多くの人命を失わせたことをしっかり、記録に、人々の心に刻まないわけにいかない。貞観地震の時代と異なり、現代社会では原発という大きなリスクがあることを知るべきである。

 4万人を超える福島県外への避難者は、
  「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの ・・・ 」 犀星
  「ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 啄木
を思い起こし、ふるさとへ帰ることができぬ悔しさを感じているのではないか。自らにまったく責任がない事故で、ふるさとを奪われた悔しさ悲しさを感じないわけにいかない。

 これほどの人災がありながら、誰一人として罪を問われないという不思議が許されてなるまい。
想定外、などというまやかしの言葉で多くの人命、生活が奪われておきながら、5年も経過すれば何事もなかったように原発が再稼働するという「狂気」が進行しているこの国の民意は、自らの首先に短刀を突きつけられ血が流れなければ命の危険を感じられないほど愚かなのだろうか。

 原発事故が発生すれば、命、地域破壊が確実にやってくる。原発の稼働を、地元振興、労働確保などということで認められていいのだろうか。現在、原発が稼働しなくても、電力は不足していない。
避難計画も確立してない福井県の原発が大事故を起こせば、関西地方が全滅状態になることを、なぜ想像できないのだろうか。
 原発は、核廃棄物の最終処理の方法が具体的に確定しないかぎり稼働すべきではない。

 仮に電力が原発停止で不足しても、それなりの生活をすればいいのではないか。豊かさが、国土を破壊し、ふるさとを失うことに優先するのだろうか。
 貧乏して不自由な生活をしても命を失うことはない。先んじてあるものは命である。

<前                            目次                            次>