日々の抄

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 国民が問われている

2016年4月6日(木)

 集団的自衛権を行使できるようにする安全保障関連法が3月29日、施行された。
 自衛隊の海外での武力行使や、米軍など他国軍への後方支援を世界中で可能とし、戦後日本が維持してきた「専守防衛」の政策を大きく転換した。いかに首相が、より日米の関係が強化されるといっても、自衛隊の海外での武力行使によって、日本人が他国からの武力の対象にされることは間違いなく起こりうることになり、日本人の生命が危険に晒されることになることは必然である。

 集団的自衛権を正当化するため、1957年米国に、圧力をかけられて出された砂川事件最高裁判決まで持ち出して、憲法解釈を強弁して成立させたとする安保関連法は明らかに正当化できない。次の諸点において疑義が残る。
(1) 集団的自衛権の行使は憲法9条に違反するとの批判がある。行使は「存立危機事態」で認められるというが、「他国への攻撃によって日本の存立が脅かされ、国民の権利が根底から覆される明白な危険」がどのような状態かが、曖昧である。
(2) 首相が集団的自衛権の行使例に挙げた中東・ホルムズ海峡での機雷除去は、イランの核問題が解決し、日本企業がイラン入りできる状態にある現在では、現実味がなくなっている。
(3) 存立危機事態には至らなくとも、放置すれば日本が他国から攻撃されてしまうような深刻な状況を政府が「重要影響事態」と認定すれば、米軍とともに活動する他国軍を自衛隊が後方支援できるようになるというが、どのようなことがそれに当たるのか定かではない。当初、首相がプレゼンで母子の絵を示して説明したことの多くは、今となってはいったい何だったのだろうと思える。
(4) 安倍政権は、集団的自衛権の行使容認は限定的だから合憲だとしているが、先の戦争の経験者は、『他国軍の「後方支援」なんて言うけど、生やさしいものじゃない。私は「前線」と「後方」の違いも、兵士と非戦闘員の区別もない戦場をこの目で見たからわかる』という言葉にどう答えるのか。
 総じて言えば、後方支援という行動も含め、同法によって、自衛隊が米軍の属軍になることを認めることを公然化することになったのではないか。

 昨年9月17日、参院「安全保障関連法案を審議する委員会」で怒号が飛び交う中で行われた採決は、喧噪の中で「議事の内容が把握できないような状況だったのは客観的事実」とし、速記録でも「議場騒然、聴取不能」と記録されたことからも、この法案が成立したことは認めがたい。一部始終をTV中継で目を凝らして見ていたが、どう考えても議決したと認める状態ではなかった。
 
 同法成立後、衆議院の議員125人(定数475)、参議院の議員84人(定数242)が国会召集を求め、「衆参いずれかの総議員の4分の1以上が要求すれば内閣は国会を招集しなければならない」と憲法53条で定められているにも関わらず、特別国会を開くことを政権は拒否した。その理由は「憲法に招集時期の規定がないから先延ばしすることができる」などという子供だましのものであった。
 
 また、同法が審議されている中で、政権は、野党に対案を出せと繰り返し、一部マスコミもこれに同調していたにも関わらず、野党4党が国会に提出している「安全保障関連法廃止法案」の審議を拒否している。その理由は、「夏の参院選が終わるまで世論の関心をあえて喚起する必要はない」と云うことらしい。
 あれほど、「丁寧に説明します」などと云っていたにも関わらず、法案が成立してしまえば、「寝ている子を起こすな」と云わんばかり。国民は時間が経てば忘れる、などと考えているようで、これほど欺瞞に満ち、国民を馬鹿にした行為はあるまい。

 同法が施行されても、国民の反発を恐れているとみえ、夏の参院選で不利にならぬためと考えていることが見え透いているように、今夏に米ハワイ沖で予定されている日米などの多国間軍事演習「リムパック」を巡り、海上自衛隊側が同法に基づく米艦防護などの演習内容は盛り込まない意向を米軍側に伝えたり、南スーダンでの国連平和維持活動(PKO)での「駆けつけ警護」は、「相手側を含め、犠牲者を出さずに完遂するのはかなり難しい」「犠牲者が出る前提での運用方針作りは困難とし、法運用の準備が遅れている一因だ」とし、5-6月の交代要員の派遣時は、参院選後とすることを防衛相が明言している。

 同法が妥当だと思うなら、政権は時を待たず、執行できるのではないか。つまりは、国民の反発から、参院選で批判票が多くなり、予定している改憲を不利にしたくないための、国民をなめた姑息な方法をとっているのだろう。同法が本当に国民のためになることに自信があるなら、堂々と野党提出の議案を審議し、約束通りに丁寧な同法の説明をし、理解を得られる努力をすべきである。無理な憲法解釈でなく、憲法を改定してから集団的自衛権を論ずるのが正統な手順ではないか。

 政権に都合の悪いことは「中立性がない」などとして、マスコミに圧力をかけるようなことは、所詮自信がないことの結果なのだろう。多数という力に任せて、結果を急ぐばかりであまりにも余裕がなく、数の横暴と見えることで、政治が劣化しているなどと謂われ続けていることに気づいてもいいのではないか。与党内から政権に対する反論が聞こえてこないことは憂慮すべきことである。
 国民はいつまでもおとなしい羊ではいられない。次の選挙は、この国のゆく方向を選択する、今までにない重きを置かなければならないものといえるのではないか。

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