日々の抄

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 リオ・オリンピックが終わった(1)

2016年8月24日(水)

 リオ・オリンピックは、競技施設の建設が間に合わないのではないか、治安は大丈夫なのかなど、不安材料満載だったが、施設に不具合があったものの、やっと間に合ったようだ。だが、治安については、各地で強盗、暴力など数多くあった。死者がでなかっただけよかったと思うべしか。

 アパルトヘイトの歴史を越え、金メダルを獲得した南ア選手がいた。航空機代が払えずに参加が危ぶまれたナイジェリアのサッカーチームは銅メダルを得た。10名の難民選手団の参加は初であり、ブラジル政府が発行する難民用「人道ビザ」は画期的だった。陸上男子マラソンで銀メダルを獲得したエチオピア代表のフェイサ・リレサは、ゴールインする際に自国政府の弾圧に対して抗議を表明するポーズを取り、自の命も危険にさらされる恐れがあると語り、五輪に参加する選手がみな、身の安全を保証されているのではないことを、改めて全世界に知らしめた。

 日本選手の活躍はめざましいものがあった。水泳、体操、レスリング、卓球、陸上400メートルリレーなど、一瞬も目を離せない試合を見ることができた。今回の大会で、卓球が優雅という言葉が当てはまらない、格闘技であることを再認識させてくれた。
 この大会で現役を去る選手、次の東京オリンピックに活躍するであろう選手あり、銀メダルをとれたのに、悔しさから涙顔でうなだれる選手あり、銅メダルをとって、大喜びで満面の笑顔になる選手あり、いろいろである。

 競技において、ほとんどの選手は敗者になる。ごく一部の勝ち残った選手だけが栄光に与ることができるのだから、勝利の瞬間に雄叫びを上げ、所謂ガッツポーズをするのは選手の立場に立てば当然の行為だろう。表彰台の上でメダルを噛むまねをしている選手がいても、そこに至るまでの努力、道のりを考えれば、それが「みっともないこと」などと切り捨てることは、安易すぎる価値観の押し売りではないか。

 そのガッツポーズが品性がないだの、相手に対する敬意がないだのと、ケチをつけている人物もいる。TBSの朝の番組で元巨人軍選手だった辛口コメンテーター氏は、卓球の水谷選手のガッツポーズに対して「スポーツ選手の先輩として、後輩の水谷に、卓球の。あんなガッツはダメだよ。手はね、肩より上に上げちゃダメなのよ。’ やっつけた ’ っていうような態度を取っちゃダメよ。この国は礼に始まって礼に終わる。スポーツだからね、やっぱりガッツは、肩の下まで。これ、注意をしておきます」などと、訳の分からないことを公共の電波で、自己主張していたことに違和感を持たないわけにいかない。
 なぜなら、氏は自らが現役の時、同僚の王貞治氏がハンクアーロンの記録を破ったときに、空高く拳をあげジャンプし、また、自らが3000本安打を記録したときも、拳を高く突き上げた姿が残されていることをどう説明するのか。
 
 ガッツポーズの元祖と伝えられているガッツ石松氏は、「私のガッツポーズは肩より上だしね、ガッツポーズに定義はなしだ。’OK牧場’じゃねえの?」と、明快である。相手に対する礼、云々を言うなら、打者が記録を残してガッツポーズをする場面に、対戦相手であるピッチャーがいるはずである。やっつけたはずである相手に対する礼を言うなら、氏のガッツポーズは相手に対する礼を大いに失した結果であり、それが野球史に残されたことになるのではないか。氏が言うところの「この国は礼に始まって礼に終わる」、の「礼」はそんな程度のものなのだろう。正に「やぶ蛇」を地でいった典型的な、先輩風を吹かせたいだけのみっともない例なのだろう。もう少し、若者に元気を与えるようなポジティブなコメントを語れるように努力することを勧めたい。


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