日々の抄

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 リオ五輪が終わった(2)

2016年8月25日(木)

 リオ五輪日本選手団壮行会で、「国歌独唱」とアナウンスされ、ステージ上のモニターにも「国歌独唱」と表示されていたため、参加した選手ら約300人は「斉唱」しなかった。このことに対し、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長が来賓あいさつとして、「国歌を歌えないような選手は日本の代表ではない」などと述べたと伝えられていたが、新聞各紙の伝え方が異なっていた。
 朝日は、「国歌独唱」と会場に示されていたことを伝えているが、他紙は「どうしてみんなそろって国歌を歌わないんでしょうか云々」を伝えるのみで、選手たちが、なぜ国歌を斉唱しなかったかについて伝えてなかった。
 森氏は後日、「お願いをしたわけで、文句や注文を言ったわけではない」と述べた。文句や注文でなくとも、「日本の代表でない」とまで断言できる立場にあるのだろうか。大いに異論はありそうだ。


 23日の朝日新聞に、「スポーツと国家、個人のかかわり」について下記三氏の考えが掲載されていたので、紹介しておきたい。
 
元サッカー日本代表主将宮本恒靖氏
「…… 胸の中の思いは選手それぞれだし、どう表現するかも人によるものです。黙って目を閉じて、国歌を聞く選手もいます。その瞬間にどう振る舞うかは、意思の自由。心を一つにするためにみんなで歌うという方法もあるかもしれませんが、ルールを決める必要はないと思います。代表にいたとき、協会や監督から言われたことはないし、自分が主将のとき、決まりを作ろうとも思いませんでした。
…… 五輪の表彰式で、一番真ん中に国旗が掲揚されるという場面は、まさに喜びをもたらせた瞬間です。それを見ながら、誇らしいとか良かったとか、さまざまな思いがわくでしょう。その感情をどう表に出して、そして国歌を歌うか歌わないかも、選手それぞれですよね。見守ってあげてほしいなと思います。
…… 選手としては、使命や期待に応えるのはプレーです。いかにチームや個人としてしっかり力を出すか。代表の役割もそこに尽きると思います。」

プロ野球解説者江本孟紀氏
「スポーツ選手は君が代を歌うべきだと思います。…… 国歌を歌うよう強制はしないと政府は答弁していました。しかし、その後、東京で石原慎太郎都知事、大阪で橋下徹府知事がそれぞれ登場したことなどもあって、教育の現場では強く指導する流れになっていますね。
 …… スポーツの世界で、戦時の経緯を考え、政治的に歌いたくないという選手が歌わないのなら、それでいいと思うんです。ただし最近、スポーツ選手が ’ 日の丸を背負って ’ ’ 国を背負って ’ といった言い方をしきりにする傾向があると感じています。大げさな感じであまり好きじゃない表現ですが、そのように言う以上は、君が代を歌えないのは矛盾するでしょう。」

武蔵野美術大学教授志田陽子氏
 『オリンピックは、平和な社会と「人間の尊厳」を推進することを目的としていて、憲法と共通する精神を持っています。さらに、憲章は第6条で「オリンピック競技大会は、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と明記し、競技者個人を参加主体としています。国別のメダル獲得数が報道されていますが、同憲章では、国際オリンピック委員会と組織委員会が国別のランキングを作成することを禁止しています。国ではなく、選手とチームが主体なのです。』
 『そんな流れを知ってか知らずか、2020年東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の森喜朗元首相の「国歌を歌えないような選手は ……」の発言は大変残念なことです。オリンピックの精神からも憲法の理念からも、権力が個人の心の中に入り込むことがあってはならない。国歌を歌うか歌わないかは、選手に任されるべきです』
 『公的な立場にある人の発言は、選手だけでなく社会を構成する一般の人たちにも影響します。直接批判されていない人にも、発言を忖度し、レッテル貼りを恐れることによる迎合や萎縮をもたらす効果がある。公的立場にある人は、自らの影響力を自覚し、個人的選好を強制する発言は慎まなければなりません』
 『民主的な決定に基づいて国が公的にサポートするのはすばらしいこと。しかしその場合も、国はあくまでも応援団に徹するべきです』


 江本氏は、「国歌を歌うことを強制はしないと政府(小渕政権)は答弁していた」が、元石原慎太郎都知事らが国歌を歌うことの流れを作ったとしている。
 当の石原氏は、「文學界」2014年3月号で、「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌やあいいんだよ」「僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌う。こう歌うと、周りの人たちが驚いて振り返るのだ」。皇室については、「小学生のときに皇居の前で父親に’ 頭下げろ ’ と小突かれ’ 、姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね’ 」と述べていたことを、江本は知っての論なのか。

 宮本氏の「五輪の表彰式で、一番真ん中に国旗が掲揚されるという場面は、まさに喜びをもたらせた瞬間。それを見ながら、誇らしいとか良かったとか、さまざまな思いがわく。その感情をどう表に出して、そして国歌を歌うか歌わないかも、選手それぞれ。見守ってあげてほしい」
 
 志田氏の、『公的な立場にある人の発言は、選手だけでなく社会を構成する一般の人たちにも影響。直接批判されていない人にも、発言を忖度し、レッテル貼りを恐れることによる迎合や萎縮をもたらす効果がある。公的立場にある人は、自らの影響力を自覚し、個人的選好を強制する発言は慎むべし』『民主的な決定に基づいて国が公的にサポートするのはすばらしいこと。しかしその場合も、国はあくまでも応援団に徹するべきです』
 は、共感を得られる言葉である。
 五輪選手の支援に税金が使われているのだから、表彰台に上がった選手は国歌を歌うべしという論を聞くことがあるが、あまりにも直情的である。税金の恩恵にあずかってない国民はひとりとしていないはずである。そう考えれば、国民はすべて国歌を歌うことが義務であるかのようなことになりかねない。個人の心の問題より、国の論理が優先するという、かつて日本が歩んできた戻りたくない社会につながる気がしてならない。 
 
 選手が素直な気持ちで、国歌を誇りをもって歌いたいと思える環境を作ることが肝心なのではないか。
 
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