日々の抄

       目次    


 八月の終わりの日に

2016年8月31日(水)

 ことしも終戦記念の日前後に、戦争記録のドキュメンタリーを多数みた。
ドラマとしての戦争物は勇ましさが先に出て、今更ながら戦争の愚かさを知らされるのみであった。

 以下のようなTV映像を長い時間かけてみた。
「沖縄空白の1年 基地の島はこうして生まれた」
「誰も知らないカラフト 物語 なぜ宝の島と呼ばれたのか」
「ふたりの贖罪 日本とアメリカ 憎しみを越えて」
「ある文民警察官の死 カンボジアPKO23年目の告白」
「昭和の選択 開かれた戦争への扉 日独伊三国同盟の誤算」
「硫黄島からの手紙」
「太陽の帝国」
「平和へのラストフライト」
「54枚の写真 長崎・被爆者を訪ねて」
「決断なき原爆投下〜米大統領71年目の真実」
「戦艦武蔵」
「百合子さんの絵本〜陸軍武官小野寺夫婦の戦争」
 
 毎年のように新たな発見があるが、それらの中で特筆すべきものが二つあった。
そのひとつは「決断なき原爆投下〜米大統領71年目の真実」。
 その内容は、原爆投下の最終的決断が、トルーマン大統領によってなされたのでなく、軍の独断であったというもの。
 真珠湾奇襲攻撃に対し、多くの米国人が日本に憎悪を膨らませ、ほとんど戦力を失っている日本に終戦を促すためとして、実用化できそうになったばかりの原爆投下を画策した。マンハッタン計画を企てたルーズベルト大統領の急死により、その計画を知らずに大統領に就任したトルーマン大統領が原爆投下の判断をするという立場に立たされていた。

 原爆投下について軍と大統領の間で激しいせめぎ合いがあったことが分かった。トルーマンは「原爆を落とす場所はあくまでも軍事施設に限る(トルーマン日記)」としたが、一方で軍は最大限の破壊効果を得るために、「原爆の威力を隅々まで行き渡る都市に落としたい」とし、市民の多くが住む中心部を狙っていた。
 今も退役軍人が語る「多くの日本人が亡くなったが、何千人もの米兵が救われた。トルーマンは正しい決断をした」「今生きているのは原爆のおかげだ。原爆が戦争を終わらせたおかげで日本の子どもたちも死なずにすんだ」と語っている。広島、長崎の子どもたちは死ななかったというのか。その原爆投下により21万人の犠牲者が出た。士官学校に残されたテープから「トルーマン大統領は正しい決断をした」ことが正しくないことが判明している。
 
 原爆計画責任者はグローブス准将。目的地の候補は、「広島、長崎、新潟、京都、小倉、新潟」としたが、広島が軍事都市として、原爆投下の成果を効果的に示せると考えた。一般市民を攻撃することはないと見せかけ、グローブスはトルーマンを欺いたのだ。
 グローブスは原爆投下指令書を発令したものの、トルーマンがこれを承認した記録は残されてない。トルーマンは戦後処理のためのポツダム会談の帰途の大西洋洋上で広島原爆投下を知ったという。帰国後、広島の惨状を知ったトルーマンは「こんな破壊行為をした責任は私にある」と語り、軍のねらいを見抜けなかったことに気づいたときは後の祭りであった。ついで長崎にも原爆が投下された。
 つまり軍の主導によって原爆投下が行われ、文民統制が機能してなかったことが明確になった。
 
 「… 人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」。8月10日トルーマンは「新たに10万人 特に子供達を殺すのは考えただけでも恐ろしい」とし、3発目の原爆投下を中止させた。トルーマンは、自ら明確に原爆投下を辞めさせなかった責任を回避するために、「戦争を早く終わらせ 多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」とし、原爆投下を正当化した。命を救うために原爆を使ったというのだ。軍の暴走を止められなかった大統領の、この原爆投下の正当化が、現在も米国民に語られていることを米国民はどう考えているのか。否、真実を知らされてないのではないかとさえ思う。
 
もうひとつは「沖縄空白の1年 基地の島はこうして生まれた」
 米軍海軍軍政府は沖縄住民による自治政府を作ろうとしていた。つまり、沖縄村民に自治を任せ、民主主義を根づかせようと考えた。1945年8月15日、海軍軍政府と15名からなる30万島民代表である「沖縄諮詢会」の会合があり、その場で海軍軍政府は、「誠心誠意 沖縄の福祉に対して率直な意見を述べてほしい。責任と管理は暫時沖縄の住民に委譲するつもりである」と伝えたという。当時まで本土から知事が派遣され従属的であった沖縄に自由の目覚めがあった。諮詢会は各収容所の代表を選ぶ選挙を行った。本土に先駆けて女性に参政権が与えられた。10月には「再定住計画=元の住居に住民を戻そうとする計画」も考えられていた。
 
 だが、1946年1月、統合参謀本部から、陸軍部隊へ「普天間飛行場滑走路をアスファルトで舗装せよ。嘉手納飛行場2つの滑走路を延長連結せよ。那覇飛行場滑走路を完成させよ」との、止まっていた基地計画を再開させる命令が下された。共産主義への対抗のためであったという。
 ダグラスマッカーサーが、「沖縄は単なる出先機関ではない。あらゆる任務の最重要拠点になる」として、沖縄の基地としての価値を認識していた結果であった。当時の日本政府は、沖縄を米領にしない変わりに、軍事基地化を容認するということを、落としどころとして考えた。そして、宅地、土地を接収されて住民を、基地の労働力として利用しようと考えた。また十万人もの本土へ疎開した島民を帰還させたが、帰島してもすでに、以前の住居地の多くは米軍に接収され、収容所に住むしかなかったという。

 沖縄を民主化し自治を回復させようとしていた海軍軍政府は、これらに猛反発したが、統合参謀本部は、沖縄を陸軍に統合させた。こうして、沖縄は本土から切り離され、現在も残されている沖縄基地問題の原型ができあがった。海軍軍政府が沖縄復興を行っていたなら、現在の沖縄に残された、あまりにも大きな犠牲と悩みはなかっただろう。日本本土に新憲法ができ、民主主義国家へと向かったが、沖縄島民は、日本に棄民されたと同様に扱われたのだ。
 戦後の空白の一年の結果が日本国民に今突きつけられているのだ。
 
 これら二つのドキュメントはNHKの緻密な、米軍の文書を調べ上げての結果である。戦中、戦後の表に出されてない事実がまだまだ沢山隠されている気がしてならない。
 「過去に学ばない者に未来は開けない」のではないか。あれほどの国民の犠牲を避けられなかった戦時の記録を、もっともっと発掘し、多くの国民が過去に学ぶ機会がなければならないと感じた。
 特に、経験も少なく、理念や少々の自分に都合のいい理屈で、軍備を強化せよ、核武装も考えるべきだ、多数に立てば都合の悪い報道は抹殺しても構わない、などと勘違いしている国会議員諸氏は学ぶべきことが多いのではないか。

 八月は日本人にとって、過去を振り返って平和を願い、先人の痛みを感じ、過ちを繰り返さないことを再考する鎮魂の月なのではないか。
 
<前                            目次                            次>