日々の抄

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 八月に思う

2017年8月20日(日)

 ことしも広島、長崎の原爆記念日、終戦の日と、平和を考える月が過ぎようとしている。例年のとおり、平和を考えるための映像をできるだけの時間を割いて観た。以下にそのいくつかを書き出してみる。

ドラマ東京裁判「第1〜4話」
NHKスペシャル 原爆死 ビッグデータで迫る72年目の真実
テレメンタリ―2017「追跡!原爆影響報告書 〜隠された安田高女の記録〜」
“原爆の絵”は語る〜ヒロシマ 被爆直後の3日間
あの日 あのとき あの番組▽“核なき世界”をめざして〜広島 原爆投下から72年
ザ・スク―プスペシャル ビキニ事件63年目の真実
NHKスペシャル「原爆死〜ヒロシマ 72年目の真実〜」
戦後72年の郵便配達
オバマと会った被爆者 72年の記録
NNNドキュメント「4400人が暮らした町〜吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園」
BS1スペシャル「原爆救護〜被爆した兵士の歳月〜」[
ヒロシマ世界を変えたあの日
昭和の選択「太平洋戦争 幻の航空機計画〜軍用機メーカー中島飛行機の戦争〜」
アナザーストーリーズ 運命の分岐点▽オバマ大統領広島の地へ〜歴史的訪問の舞台裏
わしらの声は、届くかのぉ〜被爆者75歳NYへ行く
もういちど、日本「長崎の鐘」
ザ・ドキュメンタリ―「原爆が奪った女学生315人の青春〜米・極秘文書に隠れた真実」
終戦72年特別番組 秘密 〜いま明かされる4の真実
NHKスペシャル「本土空襲 全記録」
BS1スペシャル「幻の原爆ドーム ナガサキ 戦後13年目の選択」
明日世界が終わるとしても「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」
ETV特集「原爆と沈黙〜長崎浦上の受難〜」
目撃!にっぽん「ただぬくもりが欲しかった〜戦争孤児たちの戦後史〜」
BS1スペシャル「なぜ 悲劇は生まれたのか〜写真家・船尾修 旧満州の旅〜」
NHKスペシャル「731部隊の真実〜エリ―ト医学者と人体実験〜」
BS1スペシャル「なぜ日本は焼き尽くされたのか〜米空軍幹部が語った“真相”〜」
NHKスペシャル「樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇」
NHKスペシャル「戦慄の記録 インパ―ル」

これらの中で特に印象的だったのは、
・ ことし7月に核兵器禁止条約が国連で採択されるために奮闘した、カナダ在住の被爆者、サーロー節子さんのドキュメント『 明日世界が終わるとしても「核なき世界へ ことばを探す サーロー節子」』、
・ 「ハバロフスク裁判」の音声記録から実相を明らかにした、『 NHKスペシャル「731部隊の真実〜エリ―ト医学者と人体実験〜」』
・ 戦禍の残酷さ、無謀な戦闘であることを再び明らかにした、『NHKスペシャル「戦慄の記録 インパ―ル」』
などだった。この中で、『NHKスペシャル「戦慄の記録 インパ―ル」』について記しておきたい。

 1944年3月に始まり3週間で、川幅600メートルもあるチンドウィン川と2000メートル級の山々が連なるインドとミャンマーの国境地帯を越え、インドにあったイギリス軍の拠点インパールを攻略する作戦で、陸軍第15師団(祭兵団)、31師団(烈兵団)、33師団(弓兵団)の計10万人を投入された。
 
 開始から4ヶ月後の作戦中止まで戦死者3万人を出した。戦死者のほとんどは病死や餓死。撤退は作戦中止の半年後の同年12月になっても完了しなかった。戦死者の約6割が作戦中止後撤退中の死亡だった。
 盧溝橋事件の連隊長として功績のあったとされる牟田口中将が司令官だった。彼は「大東亜戦争に勝ちたかったという一念にほかならなかった。戦争全般の形勢が各方面とも不振である当時の形勢に鑑み、作戦指導如何によっては戦争前局面を好転させたいとの念願を持っていたからである」と1965年に語っている。ラングーン奪還からインド侵攻を企てていた。

 食糧補給の目算も立たぬまま、470キロを踏破するという無謀なものだった。兵站を無視した戦に勝機はなかったことは明白。一日250キロもの食料を空から補給できた英国軍に勝てるはずはなかった。兵士の命を消耗品にしか考えなかった司令官をはじめとする軍幹部、大本営の罪は重い。このとき、国内の新聞は「コヒマに勇敢進軍」などと報じていた。秦中将は勝ち目のない戦況を述べるも、東条英機はこれを聞こうとしなかった。兵士の最後の言葉は「天皇陛下万歳」でなく、親の名を呼んで逝ったという。

 ひと月に1000ミリもの降水量のあった雨期がくること英国軍は待っていたが、日本軍は撤退の決断をすることなく、作戦開始から 4ヶ月後の7月1日作戦中止が宣告されたものの、その後、全体の6割もの死者の多くは自害、病死、餓死で、ハゲタカ、インドヒョウの犠牲になったものも多かったという。帰還した「白骨街道」と呼ばれた道には累々たる遺体が腐敗していった。

 司令官などが、無事に帰国することができていたのはなぜか。戦後インパール作戦について牟田口司令官は、「これは軍の指示だった」とし、大本営服部作戦課長は英軍の取り調べに対し「日本軍のどのセクションがインパール作戦を計画した責任を引き受けるのか。インド侵攻という点では大本営はどの時点であれ一度もいかなる計画も立案したことはない。インパール作戦は大本営が担うべき責任というよりも、南方軍ビルマ方面軍そして第15軍の責任範囲の拡大である」として責任のなすりあいをしている。

 一方、牟田口司令官は「終戦後19年間、私は苦しみ抜いて日本国内で”牟田口の馬鹿野郎馬鹿野郎”と、すべての雑誌、戦記物でも叩かれておったんですが、英国のアーサー・バーカー元中佐からの「日本軍は英国軍を苦しめていた」との手紙に喜び、「私ども戦争当事者としてとった作戦の方針ならびに指導なりが、時宣に的中していたことは事実に徴して証拠立てられた場合、その喜びはいかなるものであるかをお察し願いたい」などと述べている。いったい、3万人ものひたすら帰国を待ちわびていた家族も友もいる、尊い失われた命をどう思っているのか。
 
 インパール作戦を克明に記録していた斉藤少尉は「将校、下士官は死んでない。日本の軍の上層部は悔しいけどそんなもんです。(その名実を)知っちゃったら辛いです」と語っている。
 「生き残りたる悲しみは 死んでいった者への哀悼以上に深く寂しい。国家の指導者層の理念に疑いを抱く望みなき戦いを戦う 世にこれほどの非惨事があろうか」という言葉で番組を終えている。
 
 戦時中の記録を見ると、戦禍の惨さを知り、悔いて語ることのできない過去を70余年も心にしまい込んで苦しんできたのは最前線にいた兵士であり、勇ましい言葉で多くの命を「お国のため、天皇のため」として死に追いやった大本営をはじめとする軍指導部、満州でのソ連軍侵攻時に邦人を見捨てて早々に撤退した関東軍、731部隊で細菌兵器の人体実験を主導していた医学関係者を含めた軍指令、終戦になっているにもかかわらず、樺太で戦闘を命じた司令など、いずれも、なんのことはなく生き残っているのはどういうことなのか。
 「生きて虜囚の辱を受けず」と戦時訓を説いていた東条英機が、敵に捕らえられ裁かれたのはどういうことなのか。日本は被爆国であるとともに、侵略加害国であることを改めて知らされた思いがする。

 国の指導者といわれる人々が白々しい詭弁をもって保身に走り、責任回避していることは、今も戦時下も変わらないように思える。国が信ずるに値しない組織だ、などとはなんとも悲しいことだ。東京裁判で戦犯と称する人々が連合国に裁かれたが、これらの人々が国内で裁かれない限り、本当の終戦が来ることとは思えない。
 
 八月は日本にとって平和を考える月。戦災孤児になったかもしれない年齢の身として、戦火に散ったひとのために鎮魂の想いを持って、ことしも新しい 戦争記録の新たな実相を知った。
 
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