日々の抄

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 往生際が悪い男だ 

2006年01月29日(日)

 ライブドアー元社長堀江氏が証券取引法違反容疑で逮捕された。あれよあれよという間に、巨万の財をなし時代の寵児ともてはやされた結果である。言うまでもなく彼は昨年突然行われた、衆院選挙広島6区で亀井静香氏の選挙区で刺客として立候補したものの落選の憂き目に遭っている。彼がこの選挙区に立候補した動機が、自分の知名度を上げ、自社株の価値を高めることであることは明らかである。この立候補の一件を含め、今回の一連の動きの中で納得しかねることがある。

その一。犯罪に手を染めていた堀江氏を選挙で応援した事に対する責任について。
 23日の民主党の前原代表の衆院代表質問で、自民党が堀江氏を「ネット世代の若者を取り込む票寄せパンダとして大いに利用した」と批判し、首相と自民党は「道義的な責任を免れることはできない」として、国民への謝罪を求めたが、首相は「違法行為があれば厳正に対処すべきことは当然」と述べつつ、この事件と総選挙での応援は「別の問題と考えている」としていた。なぜ別問題なのかの説明はない。説明できないのだろう。24日、「不明だと言われれば、それまでですけどね。持ち上げたと言っても、無所属で落選したんだからメディアより有権者は冷静だったんじゃないですか」「あのメディアの持ち上げ方、何ですか。自分の持ち上げ方を棚にあげて、改革まで私の責任と批判している」と反論した。同時に「メディアが広告塔みたいにしたんじゃないですか。時代の寵児みたいに取り上げたのはどうなのか」と強調。「民主党でも事件起こしてるでしょ。覚せい剤で逮捕されたり」と、八つ当たり気味で全く反省の色がなかった。この人の訳の分からない強弁がどれほど若者を毒し、心ある国民を傷つけているかを考えると、こんな人が日本の代表であることが恥ずかしい。

 しかし自民党内で批判的な声が出てきたためか、26日の国会答弁で「責任があると言われれば、甘んじて受ける」と発言している。はじめから、反省の気持ちを表していれば潔いのだが。しかし「責任があると言われれば」と言うことは、誰かが悪いと言っているなら謝ってもいいよ、ということか。本心は謝る必要を感じてない、謝っておく方が得策、というように聞こえて仕方ない。どんな責任を感じているか知りたい。

 選挙で積極的に応援した、武部幹事長、竹中総務相についても不明瞭な対応をしている。武部氏は堀江氏を「我が弟、息子だ」と持ち上げていた。24日の会見では「個人的な立場で応援した。このことは総理にもだれにも話していない」。「私は若者には誰にも、弟、息子といっている」とも弁明している。幹事長が応援すれば、本人が個人的と言い訳しても幹事長であることには違いない。そういう言い訳をしないためには幹事長の職が外れてからすべきであるし、そんな子供だましの言い訳はみっともない。首相が「個人として靖国参拝してどこが悪い」と言っていることと同じである。武部氏も党内から「執行部は、悪いものは悪い、間違ったものは間違った、と言うことだ。非は非として謙虚に認め、どうリカバリーするかが大事だ」などの批判がでると、27日の記者会見で「反省すべきは反省する。厳しく戒める」としたうえで、「候補者選びのことも含めて信頼を損ねたという批判がある。謙虚に受け止めて、こういうことのないようにしっかりやる」としている。これも不思議な発言だ。「批判があるから云々」ということは、批判がなければ自分では悪いと思ってないのか、と受け止めたくなる。批判がなくても自らの反省の弁を聞きたい。自ら反省の弁を語れてこそ一人前の政治家のではないか。武部氏の反省の弁が首相の同類の発言と時期的にシンクロしているのは、武部氏の首相に対する忠誠心の現れか。

 また、竹中氏は「党側の要請を受けて応援に赴いた。堀江氏がやってきたことに政府保証を与えたとは全く考えていない」と述べたことに対し経産相は「党として特に要請して行って頂いたわけではない」と述べるなどその場凌ぎの言い逃れが見え隠れしてみっともない。

 どうも、最近の政治家は小物が多すぎる印象がある。嘗ては論争の両極が大論陣を張って政治論争が展開されてきたが、今は小手先のその場凌ぎが多すぎる。大政翼賛会擬きの政治が行われている現状で、今の政治家の中に50年後100年後のニッポン像を語る人間が何人いるのか。IT革命を論じる人間がいても、食料の殆どを輸入に頼っている現実を考え、農林水産業について訴えている議員が何人いるというのか。

その二。マスコミおよび似非評論家氏について。ライブドアーがプロ野球新規参入で注目されてから、何かにつけて肯定的にライブドアー、ホリエモンを報じ論じてきたマスコミおよび似非評論家氏は堀江氏逮捕が報じられると、手のひらを返したように批評をはじめている。正に「マスコミの忍法手のひらがえし」である。無論のこと、法を犯した人物を肯定することはできないが、ホリエモンを持ち上げ、肯定し、時代の最先端を行く好ましい人物として報じてきたことに対して、どういう態度をとっているのか。「金で人の心が買える」としてきた人物が、実は実態のない株取引で、正に虚業を重ねてきたことを報じ、彼を礼賛してきた反省の言葉を聞きたい。こうなることは分かっていたなどと物知り顔で語っている似非評論家はしばらく反省してマスコミから姿を消してほしいものだ。あるTV局では、「この番組では、一度も堀江氏を肯定したことはなかった」と語っているが、ほとんど連日のように報じてきたことが、彼の活動を手助けしたことにならないのか。選挙の時も、恰もホリエモンを含めたチルドレンさん達だけが立候補者であるように報じ、世論を誘導してきたことの責任はないのか。

 最近は、ポスト小泉がすでに決まっているかのように報じているのは如何なものか。後継者と目される複数の人物が、憲法改正、対米、対東アジア問題、少子化、年金、税制などについてどのように考えているのかを伝えるのはマスコミの仕事の一つだろうが、連日のように特定の後継者候補の発言を報道したり、TV番組に招いて好きなように発言させているのは、情報誘導ではないのか。だいたいにおいて、小泉氏は後継者をいずれは指名するというが、そんな権限がどこにあるのか。
 マスコミの中で特にTVの影響は大きい。視聴率が上がるような報道ばかりを考えたり、複数の特定の政治家が時流を追うような発言を繰り返し、彼らの知名度を上げることに荷担しているのはフェアーとは言えない。政権を肯定する報道をしているだけのマスコミは不要である。偏することなく、何が今問題になっているかを提起してくれてこそマスコミの存在価値がある。方向付けしてやらなければ国民は判断できないから自分たちが情報誘導してやっていると考えているマスコミがいたら、とんでもない不遜、思い上がりである。国民はそれほど愚かな人間だけではない。ホリエモン騒ぎ、小泉流政治を賑やかに報道してきたマスコミは大いに反省すべしである。特にTVに出てくる物知り顔で当たり障りのないコメントを発している人物は出演しないでもらいたいものだ。大宅壮一は「国民一億総白痴化」とTVが急激に普及しはじめた60年代前半に言ったが、今の日本もこの言葉を否定しきれない。改革、IT化、青年実業家の早い動きに惑わされ、ただ今までのものを壊せばいいことがあるかのような錯覚を主にTVを通して刷り込まれていたのではないのか。

 虚業によって社会を欺くようなことが通じないことが今回の事件で明らかになってきたといえる。「額に汗して働くこと」が肯定され認められるような社会でなければ、正直にコツコツ努力する人間がいい思いができるような社会でなくてどうするのか。「改革」の言葉で何かいいことがありそうな幻想にうなされていたのではないか。改革の志士と期待されてきたホリエモンが落選し、偽りが暴かれたことを見ると日本もまだ捨てたものではないと思う。いまだ犯行を認めないホリエモンは往生際の悪い男だ。

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