日々の抄

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 8月の終わりに

2019年8月28日(水)

  ことしも広島、長崎の原爆の日、終戦記念日の関係の映像をたくさん視聴した。もう何年も、この時季に行っている自分の生活の一部にもなっている、戦禍に散った300万を超えるひとびとへの鎮魂の気持ちを確認する毎年の習慣である。視聴した映像の概要は以下のようなものだった。

・マンゴーの樹の下で〜ルソン島、戦火の約束〜 (ルソン島にはかつて8000人の日本人が居住していた。ジャングルの中を3000人もの日本人が彷徨った記録)

・隠された”戦争協力” 朝鮮戦争と日本人
 (国家機密として日本人が参戦しなかったはずの朝鮮戦争に参戦させられた日本人の尋問記録。日本は米軍の後方支援をしたことになっていたが、参戦していた。朝鮮戦争で米軍の武器を製造した日本企業の資料を探している研究者により、1033ページも亘る1951年から1年間の日本人70人への尋問記録が発見された記録)。
 日本が朝鮮戦争に「後方支援」としていたが、後方支援と最前線に区別なく参戦し、多くの北朝鮮人を殺戮していたという、政権にとって不都合な記録である。国民に知らされてなかった事実の発掘ドキュメントである。

・「海は・・・知っている。キャンパスはかつて特攻隊基地でした」
 (学生生活を謳歌している姿のある現香川高専は、かつて特攻基地であった。10代から20歳代前半の若者を、勝ち目のない戦場に、人の命の重さを考えもしない特攻隊として死に至らしめた記録。)

・「昭和天皇は何を語ったか」 秘録 ”拝謁記
 (NHKによる編集では、「昭和天皇は参戦を反省したかったが、吉田首相の反対でそれができなかった。」「昭和天皇は参戦には反対だったが軍部の独走で戦争した」とし、昭和天皇に戦争責任はなかったかのように報道しているが、そうとは思えない「再軍備」「沖縄」などへの発言が残されている。NHKが公開したものは「拝謁記」のごく一部でしかない。全文を公開すべきである。記録の一部しか知らされてない限り、「不都合な事実」が隠されているのではないかという思いにかられる。)

・映画「ひろしま」  (1952年8月、全国の組合員のカンパで日教組中央委員会が製作。大手映画会社に反米的として拒否され自主配給されたものを、今の時期にNHKが配信したことに大きな意義がある。  8万人を超える被爆経験者を交えた広島市民が撮影に参加、原爆投下直後の市内の惨状、実際の映像も交えた阿鼻叫喚の姿を、迫真のリアリズムで再現し、ベルリン映画祭長編映画賞を受賞。今夏の傑出した映像と言えるだろう。)

・報道特集
 1.「松本零士が語る戦争と漫画」  (「死ぬな」と叫んだ、戦艦ヤマトの沖田艦長は松本の父がモデルだった。)
 2.「福田康夫元首相が語る戦争と記録」  (9歳で前橋空襲を高崎で目撃した。現存する前橋空襲の写真は福田が米国公文書館から得たもの。その後、公文書管理に力を注いだ。福田の父赳夫の外交三原則である福田ドクトリン「①日本は軍事大国にならない②心と心の通い合うつき合いを③東南アジアとパートナーでこれからやっていこう。」の紹介。最近の政権が行っている、都合の悪い公文書の多量の破棄は、歴史を闇に葬ることとして、大いに憂慮している)  
 3.「動員された20万の台湾人」  (日本軍によって兵役に服されたうちの3万人の台湾人が戦死した。「今も心は日本人」と90歳を終える台湾人が語る。フィリピンを米軍に奪われた日本軍は台湾守備に力を入れた。今も残された多数の基地が残されている。特攻船「震洋」も配備され、2500人の命が失われた。米軍より「餓死」が怖かったという。95歳の元老兵は空腹を思い出し、夜中に目覚め何度も涙を流し、「何のための戦いだったのか」と語る。
 台湾人でありながら日本軍に徴用されて兵役に服し、6割が餓死したというインパール作戦に参戦し、命からがら生き延びたが、戦後日本からなんの保証はないという。)
 4.「戦争孤児と500人のお母さん」  (戦争孤児は全国で12万3000人。孤児たちは残飯漁り、盗みを働いて生き抜いた。そのうちのひとりの85歳の女性が経験したことを絵に残した。
 106歳になる女性鎌田十六(とむ)さんは多数の戦争孤児を養育した。母、夫、娘を戦火に奪われた彼女は30歳になったとき、保母の資格をとり養育院で働いた。失った娘が「孤児を救って」と語っていると感じ、仕事を70歳でやめるまでに500人もの孤児を養育し、今も交流が続いている。)

・池上彰の戦争を考えるSP
 (1942年6月ミッドウエー環礁で開戦。日本軍は米、豪国に対抗し、太平洋を手に入れようと企てた。空母「赤城、加賀、飛竜、蒼龍」を主力とする艦隊が侵攻した。爆弾から魚雷に積み替えている途中に攻撃を受けた。僅か5分間の積み替えの時間ロスで総攻撃を受け艦隊は全滅し、3000名の兵力が失われた。米軍の攻撃を受けたのは、日本軍の情報が筒抜けになっていたことに起因した。
 米軍のニセ電文「ミッドウエーで蒸留装置が故障・・」という罠にかかり、暗号にあったAFという文字がミッドウエーであることを知られていたという。暗号が解読され、攻撃の2週間前から攻撃を知られていた。日本軍の「暗号が解読されるはずはない」という慢心が惨敗につながったのだった。ミッドウエー海戦の敗退が日本の敗戦につながっていった。
 大本営のニセ発表が続けられ、ミッドウェー海戦の惨敗を生き残った現場の兵士から国民に伝えさせないために、瀬戸内海の三ッ子島に幽閉させていた。ガダルカナル戦での「撤退」を「転進」と換言していた。徴兵制、赤紙を配った役場の兵事係の苦悩、長野に残された戦没画学生の残した美術館「無言館」が紹介された。)

・「かくて自由は死せり」〜ある新聞と戦争への道
 詳しく記しておきたい。要旨は次のようなものであった。
 (「日本新聞」という名の、国体を重んじる新聞の興隆。日本で普通選挙法が成立し、第一回普通選挙が行われた。日本新聞はこうした自由主義的体制が危機を招くとして激しく攻撃。わずか10年余りで自由が失われた。1941年、日本人は破滅への道を進んでいった。
 日本新聞の創始者小川平吉は司法大臣を経験し国粋主義者として知られていた。創刊は1925年(大正14年)。新聞には、後に戦争を先導した人物が列挙されていた。日本新聞は大正デモクラシーからの自由主義が国を破滅させるとし、自由主義を「売国、排撃、罷業、国体、非国民」などの激しい言葉で繰り返し攻撃していた。日本新聞が名指しで非難したのが、長野県の「下伊那」青年団の自由主義運動であった。日本新聞の編集者は民族主義者で日本新聞的思想を日本全国に流布しようと企てた。岸信介とも親しかった。
 日本新聞が攻撃対象としたのは議会であった。日本主義者は「軍拡による積極外交」を主張。ロンドン軍縮会議で濱口雄幸総理大臣は調印し、国民は軍縮をそれを支持。それを日本新聞はこれを憲法違反とした。「天皇による統帥権を干犯」、「天皇政治に帰れ」と主張。立憲政友会鳩山一郎はこれを支持したが、その結果、統帥権が議会の議論を封じるものとは知らなかった。
 1930年、世界恐慌による不況で一部の青年が日本主義に同調し、濱口雄幸総理は青年の凶弾に倒れた。その一年後、関東軍により満州事変が起こった。その後、昭電疑獄事件、五私鉄疑獄事件、売勲疑獄事件などが多発した。政治による不信感が募って閉塞感に追われ、満州事変を「聖戦」を煽り、日本民族を礼賛した。ここから、聖戦の名による侵略がはじまった。大蔵大臣井上準之助、犬飼毅らがテロによって言論を封殺された。ここで政党内閣に終止符が打たれ、軍部による独裁政治に走った。
 1935年、美濃部達吉により「天皇機関説」が論じられた。「独裁政治は一国一党の政治で政府に反対するものは即ち国賊であり、その生命すらも脅かさるる。議会政治の長所は 反対党に対する寛容の態度である」(議会制度の危機1931年)と美濃部は述べた。日本新聞は、美濃部の説を国憲紊乱思想として攻撃。全国から軍服姿のひとびとが集まり、明治神宮までデモ行進を行った後、日比谷松本楼で「陸軍省新聞班」が全経費を負担した宴会が開かれていた。つまり日本新聞は軍部とつながっていたのである。いずれも日本新聞に煽られての結果であった。
 1935年、日本新聞で「日本新聞の十年は日本転向の十年である。国民思想の資質はすでに一変したと言うことができる。国運の進路はこの方向を決定した」と小川平吉は「休刊の辞」で述べている。
 その後、1937年の盧溝橋事件に端を発し、自由を求めた社会から、戦争への絶望的な道を歩んでいった。)

   このドキュメント映像は最も印象に残ったものだった。なぜなら、その内容が近年・現実に起こっている政治情勢と酷似しているからである。大正デモクラシーにより自由を謳歌している国民に、極右の人物による「日本新聞」が国民を懐柔し「天皇政治に帰れ」として、昭和天皇がいうところの軍部の「下剋上」による参戦で国民を悲劇に導いた。

 「日本」を「日本会議」、「軍部」を「独裁的一強政治」と読み替えれば、平然と「売国」「非国民」「反日」、「南京事件はなかった」「慰安婦はいなかった」「朝日新聞は反日」などという言葉がSNSをはじめ、戦争経験のない政治家やTVのコメンテーターから平然と発せられていることと酷似している。
 国会の場で首相が平然と野党議員に「ヤジ」をとばし、他党への不寛容な政治姿勢を見せつけられている現実は、美濃部達吉による「独裁政治は一国一党の政治で政府に反対するものは即ち国賊であり、その生命すらも脅かさるる。議会政治の長所は 反対党に対する寛容の態度である」そのものである。

その他に
・「戦艦武蔵の最期〜映像解析・知られざる真実」
・「悪魔の兵器はこうして誕生した〜原爆 科学者たちの心の闇」
・「少女たちが見つめた長崎」
・「戦争花嫁たちのアメリカ
・「全貌 二・二六事件最高機密文書で迫る」
・「幻の巨大空母”信濃”」
・「激闘ガダルカナル 悲劇の指揮官」
・「ヒロシマの画家 四國五郎 が伝える戦争の記憶
・「原爆の記憶をどう伝えるのか・裁判所に挑む”伝説”の元裁判官」
・「美しき海の墓場トラック島〜戦時徴用船の悲劇」 などがあった。

 韓国と日本の高校生の交流のドキュメントも観た。印象的だったことは、韓国は歴史教育が徹底していて(歴史観が正しいか否かは別にして)、世界史、自国史,東南アジア史の3種類の教育を受けているという。日本の歴史教育で、特に近代日本史を系統的に受けることは殆どない。歴史的根拠に基づいた教育をしようと思っても、「自虐的だ」「反日的だ」などと攻撃を受けたり、「現政権の見解と異なる」などとして、史実に基づかない誤ったと思われる政治家をはじめとする攻撃を受けることを恐れて、明治時代止まりの授業に終わることが多い。「九条を守れ」が政治的発言というが、憲法を遵守することがなぜ政治的発言なのか理解に苦しむ。自治体が「政権に忖度して」催し物を中止に追い込んでいる姿は、明らかに戦前に回帰している姿に見えて仕方ない。

 明治以降、いったい何が起こって、何が大戦の原因だったのか、などを知ろうと思えば、自ら書籍や資料を収集しなければならない。自国の歴史を正しく知らずして、都合のいい歴史観をもっているなら、明るい未来は開けまい。
 戦時中の軍部に都合の悪かった国民に虚偽を伝えるために換言が、現政権による政治でも、
 『共謀罪を「テロ等準備罪」、米軍ヘリの墜落を「不時着」、武器輸出を「防衛装備移転」、カジノ法を「統合型リゾート実施法」、公文書の情報公開を阻む法律を「特定秘密保護法」、三党合意だった消費増税の延期を「新しい判断」、「徴用工」を「労働者」、「戦闘行為」を「複数の発砲事案」・「武力衝突」、「戦闘」は9条上問題になるから「武力衝突」、「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」、福島原発「事故」を福島原発「事象」』などと置き換えられている。国民を見下し、騙そうとする奢りに白々しさを感じる。

 「後になって過去を変えたり起こらなかったことにするわけにまいりません。過去に目を閉ざすものは、結局のところ現在にも盲目になるのです。非人間的な行為を心に刻もうとしないものは、新たなそうした危険に陥りやすいのです。ユダヤ人は常にそれ(非人間的行為)を心に刻んでいます。」という、ドイツ敗戦40年連邦議会でのワインゼッカーの言葉を思い出す。

 日本人、特に為政者はこの言葉をどう思っているだろうか。これがたくさんの映像を視聴した後に思ったことである。

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