日々の抄

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 アフガンで命の危機にある人を救え

2021年9月5日(日)

 アフガニスタンの首都カブールが8月15日イスラム主義勢力タリバンによって陥落。アフガニスタンのほぼ全土がタリバンによって支配された。カブール陥落から8日後の8月23日、輸送機や自衛隊員の派遣を決定。実際に国外へ移送できたのは、米国から依頼された旧政権の政府関係者ら14人のアフガニスタン人と、退避対象者の日本人1人だけだった。
 それから11日後の9月3日に自衛隊機は帰国。若干名の日本人と大使館や国際協力機構(JICA)などの外国人スタッフやその家族約500人(700人とも言われている)は取り残され,今も命の危険にさらされている。

(1) 主な国のアフガニスタンからの退避者数は以下の通り。人数は(2)と重複する。
 米国約12.3万人、カタール約4万人、英国約1.5万人、ドイツ5347人,オーストラリア約4100人、フランス約3000人、スペイン1898人、トルコ1400人、ポーランド900人、インド565人、韓国390人、オーストリア109人,アイルランド36人、日本1人。

(2) 各国の退避開始および退避状況日程は以下の通り。
5月10日:フランス
 5月から退避活動を本格化させ、仏国防省によると8月15日にカブールが陥落するまで、623人のアフガニスタン人とその家族をフランスに退避させていた。
8月14日:米国,英国
 英国は,15日、英国人や大使館の現地スタッフら250人を乗せた最初の航空機が空軍基地に到着。14日間で、飛行機による輸送は165回以上にのぼり、1万5千人近くを退避させた。アフガニスタンの政治家や人道支援家ら、迫害を受ける恐れの高い人々も含まれる。
英国はすでに4月、自国民に退避勧告を出したほか、通訳など現地の協力者らの退避手続きも進めていた。タリバンの攻勢の早さが明らかになると、追加部隊の派遣を8月12日に決定。大使らは大使館閉鎖後も、空港近くのホテルで作戦の指揮を続けた。
8月15日:タリバンがカブール制圧
 ドイツは8月15日に退避開始。翌8月16日から空軍の輸送機3機を現地に派遣。アフガニスタンの隣国ウズベキスタンを拠点に、ドイツ市民530人以上を含む45カ国以上の5347人を退避。
8月17日: ➡ 日本大使館12人がUAEに英国機で退避
8月23日:自衛隊機派遣決定
8月25日:自衛隊機カブール到着
8月26日:自爆テロ発生
     :ドイツ、ベルギー、オランダ,ポーランド、カナダなど退避完了
8月27日:日本人女性1人退避
その他
・ トルコは16日に民間機を飛ばしたほか、軍用機も併用するなどして自国民ら1千人以上を退避させた。チャブシュオール外相は29日、市民らをバスで空港まで運ぶため、「タリバンから必要な協力を得た」と明かしている。
・インドネシア政府は20日、アフガニスタンの首都カブールに空軍機1機を飛ばし、自国民ら33人を救出した。
・フィリピンは現地に大使館がないため、隣国のパキスタンにある大使館がSNSなどで退避を呼びかけ、自国民の所在の把握を進め、各国政府と協力し、他国の軍用機にフィリピン人を搭乗させてもらえるように調整。30日までに計187人が退避を終えた。
・ 韓国は日本と同様に大使館員を国外退避させていたが、4人の大使館員を現地に戻し、米国が契約する現地のバスを確保させた。タリバンの検問は米軍人に同乗してもらい通過した。国外へ逃れたのは25、26日で390人だった。

(3) なぜ最優先的に退避させるべき日本人および日本のために貢献してくれていた現地の人々を残して、大使館員が退避期限と言われていた31日より2週間も前に自分たちだけ退避したのか。日本国内の対応の経緯を記してみたい。

8月上旬
 日本大使館やJICAの現地スタッフをどう退避させるかの検討を開始。家族を含めて約500人規模を民間チャーター機で送り出す予定だったが、14日には外務省から防衛省に対し、自衛隊機派遣を依頼する可能性を伝えていた。
8/13
 外務省内では「2、3日で事態が急転することはない」との見方が強かった。
8/15
 タリバンが大統領府を制圧。カブールの日本大使館閉鎖
日本人大使館員12人はカブールの空港へ移動。米軍機で退避する計画だったが空港内は混乱し、米軍機の発着所にたどり着けず。12人は2晩を空港ロビーで明かした後(8/17)、英軍機で国外へ脱出。日本人国際機関の職員らは取り残された。
 大使館のアフガニスタン人スタッフは日本人大使館員から「助けたいが間に合わなかった」と告げられた。8月上旬に退避計画づくりを進言した際に返ってきたのは「心配しなくていい。他の国が退避のアクションを取れば日本も続くから」との言葉。懸念は現実のものとなった。
 米側から外務省には「自衛隊機を出した方がいい」との考えが伝えられていたが、派遣の根拠となる自衛隊法84条の4の「在外邦人等の輸送」は、「輸送を安全に実施することができると認めるとき」が要件。空港の混乱ぶりに同省幹部は「自衛隊員が命を落とせば、政権が吹っ飛ぶ」として慎重に検討していたと明かした。省内の一部には「欧米と違い、日本はタリバンに敵視されるほどの存在ではない」との楽観論もあった。
8/23
 C2輸送機が入間基地を出発。カブール陥落から派遣命令までは8日だったが、命令から出発まではわずか6時間だった。
8/26
 カブールの空港近くで自爆テロ。 自衛隊の輸送機が運んだのは26日に米国から依頼された旧政権の政府関係者ら14人と、カタールの支援を受けて空港に到着した27日の日本人1人のみ。
8/30
 米軍はアフガニスタン時間30日午後11時59分、駐アフガン米大使らを乗せた最後の米軍輸送機C17が空港を離陸。米軍は米同時多発テロの首謀者で国際テロ組織アルカイダのオサマ・ビンラディンを殺害するなどしたが、「決して簡単な任務ではなかった」と強調。
 米軍兵士ら2461人が死亡し、2万人が負傷したと語っている。民間人の死者は約4万5千人に上っている。退避作戦では、14日以降、米軍による国外搬送者は7万9千人を超える。ただ、米軍の通訳や報道関係者、女性の権利団体関係者ら危うい立場にある何万人ものアフガン人も取り残されたままである。

(4) 米国は何をしたのか。
 米国のアフガニスタンへの介入は「対テロ戦争」として「中東民主化構想」を掲げて始まったが、主戦場となったアフガニスタン、イラクに樹立した新政権では腐敗と汚職が続き、治安のさらなる悪化と混乱を招いた。
 ソ連によるアフガン侵攻(1979年)の後、米国はソ連に対抗させるため、ビンラディンらに資金や武器を提供。80年代のイラン・イラク戦争の際には、イスラム革命拡散の防波堤として、イラクのフセイン政権に肩入れし、後に米国に牙をむく「テロ組織」と「独裁政権」は、いずれも米国が育てたものだった。米国にそうした反省はあるのだろうか。

(5) 棄民は繰り返される。
 日本大使館や国際協力機構(JICA)の現地スタッフとその家族ら約500人を脱出させることはできなかった。「対応が遅かった,事態への楽観視があった,直前にテロが起こった、政府への忖度があった」など言い訳はいくらでもできるが、今このときも命の危険を背負っている人が多数いることへの責任は問われて然るべきではないか。
 他国が賢明な退避行動を早くからとっているのに、日本人大使館員だけが早々に退避したことは国際的にも、日本はそんな国なのかとの非難、誹りは免れまい。日本人として恥ずかしい限りだ。

 歴史を紐解けば,戦時下にあった満州で関東軍から見放され棄民、インパール作戦をはじめとする後方支援をしなかった若き兵士の棄民などと重なり,日本のリーダーと呼ばれている人々は国民の命など何とも思わない人種に思えてしかたない。
 また、新型コロナ罹患者の「自宅療養」も「自宅放置」にすぎない棄民ではないか。そうならないための準備期間は少なくとも一年以上はあったはずだ。日本とはその程度の国なのだろうか。これが現政権の言うところの「積極的平和主義」の結果なのか。
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