日々の抄

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 元日の社説を読んで

2022年1月2日(日)

ことしも元日の新聞各紙を読んだ感想を書いてみる。

朝日
 「憲法75年の年明けに データの大海で人権を守る」として、巨大IT企業.国家と人権について論じている。
 検索や商品の売買、SNSなどの場をネット上に設けていることから、プラットフォーマーと呼ばれる米国のGAFA(ガーファ=グーグル、アップル、フェイスブック<現メタ>、アマゾン)と総称される巨大IT企業が世界に与える影響が、場合によっては、今までの民間権力とは次元が異なる民主的手続きを経ていない『法』が我々を拘束することになるのではないかと指摘。
 例えば、トランプ米前大統領のアカウントをフェイスブックとツイッターが凍結したことが、プラットフォーマーが場合によっては表現の自由、ひいては民主主義と衝突する危うさを浮き彫りにしたとする。
 これらに対し、個人情報の保護を基本的人権と位置づけているEUは、2018年に施行した「一般データ保護規則」で対応しているが、日本国内はどうか。

  一昨年暮れに閣議決定されたデジタル社会の実現に向けた「基本方針」に、「個人が自分の情報を主体的にコントロールできるようにすること等により、公平で倫理的なデジタル社会を目指す」としたが、2021年5月に成立したデジタル改革関連法には「一般的な権利として明記することは適切でない」として盛り込まれることはなかった。
 国民一人ひとりの人権を妨げる危うさは、プラットフォーマーのみならず国家がデータを集中することも忘れるわけにはいかない。国家にもその危うさが存在することは要注意である。

 「何より個人の尊重に軸足を置き、力ある者らの抑制と均衡を探っていかなけ」としてまとめている。多量のデータの個人の人権の取り扱いだけに絞った論説に徹したが、一年のはじめの社説として、コロナ禍での国民の生命、経済、貧困、来たるべき第六波への政府の対応など、命の危うさに接している目の前の喫緊の問題についても論じてほしかった。

毎日
 「再生’22 民主政治と市民社会 つなぎ合う力が試される」と題して、政治のこれからあるべき姿について論じた。

 世界情勢について、過去5年間で権威主義的な傾向を強めた国の数は民主化した国の約3倍に上ったという(スウェーデンの「民主主義・選挙支援国際研究所」による)。アフガニスタン、ミャンマー、トルコ、ハンガリー、中国、然りである。
 
 日本ではどうか。次の2つのことを指摘している。
 「政治の最も重要な役割は人々の安全と暮らしを守ることである」
 「民主政治とは本来、為政者が少数者の意見にも耳を傾け、議論を通じて合意を作り上げる営みだ」
 だが、安倍・菅両政権下で異論を排除する動きが強まり、国民の分断を深めた。「政治とカネ」の不祥事が後を絶たず、人事を脅しに使った結果の政権への忖度は、民主政治とはほど遠い。コロナ対策も迷走、政治に対する不信を増大させた罪は大きい。

 国家権力が、在日米軍基地の7割が集中している沖縄県民に多大な犠牲を強いていることは、台湾情勢の成り行きによっては更に激化しかねないことがまさに「沖縄は日本の民主主義のカナリアだ」と言えよう。
 「代議制民主主義の足りないところを補完し合う関係が望ましい」との紹介もあるが、現状の小選挙区制が民意を政治に反映できない根本問題だと思えてならない。
 マイナンバーカードが普及しないために、政府は各種のご褒美を国民に与えてなんとか普及したいと躍起になっているが、個人データが漏洩したり、マイナンバーカードが誤って発行されていること、コロナ対策として膨大な資金が注ぎ込まれて導入された「COCOA」に長い間不具合があったにも関わらず修正されなかったことなども含めて、政治への不信感がなくならない限り、マイナンバーカードは政府が思うほど普及できるとは到底思えないことを政権は認識すべきだろう。どうすれば国民に信頼されることができるか真剣に考えるべきではないか。
 政権与党は毎日新聞の社説での指摘にどう答えるのだろうか。

東京新聞
 「年のはじめに考える 「ほどほど」という叡智」と題してSDGsについての論である。
 デルフォイの「過剰の中の無」(過ぎたるは及ばざるがごとし)で「ほどほど」と論じたいようだが、地球温暖化対策として「産業革命前からの世界の平均気温上昇を1.5度までに抑えることで各国が合意」とされるものの実現は困難を極める。だが、温暖化ガスが少なすぎても地球の平均気温が下がりすぎるとの指摘は考えすぎだろう。どれほどのエネルギー消費を減らせばそうなるかを試算すれば、現代の社会生活は成立しないことになろう。
 魚、アワビの漁獲量の制限は須らくである。たしかに、(過ぎたるは及ばざるがごとし)だが、「ほどほど」は対象、場面、時代によって大きく異なることは当然のことだろう。すべて「ほどほど」だと、人類の未来はどうなるだろうと考えてしまった。
 例年の東京新聞の社説と比べると、社会の底辺で足掻く人に対する思いがなかったのは残念だった。
 
読売
 「災厄越え次の一歩踏み出そう」として細かく諸問題におよんだ論である。
 「◆「平和の方法」と行動が問われる ◆給付から雇用へ転換を ◆カギはイノベーション◆緊張高まるアジア情勢◆最前線に立つ日本◆参院選が正念場だ」などを論じたが、
 「救済のための一時金給付型支援から、新しい社会作りをめざした投資型へ、転換すべき段階にあることは明らかだろう」
 「周辺諸国をはじめ世界各地に仲間を増やす外交努力も欠かせない。国際秩序を守り、平和を守る日本の決意を広く国際社会に訴え、理解と信頼を確保するよう、対外的な発信力が求められる」
 「岸田政権は、目指す目標と具体策をはっきり掲げ、打って出ることによって、難局乗り切りの活路を開かなければならない」
 は同感であるが、あまりにも各論に亘りすぎ饒舌であった感は否めない。
  
 沖縄辺野古移転の実現が困難と思われている工事を沖縄県が反対していることを、民意を聞かずして強行している政権の強引さ、沖縄の苦渋を他人事としているかのような多くの他県民の無関心さは政権の思うツボである。語らざるは肯定に等しい。
 新型コロナで、18歳以下の現金給付は対象者は助かることだろうが、ワーキングプアの人々、仕事を得られないためのひとり親がこどもに食べさせるために自分は一日に一食しか口にできない人々、週末に公園での支援に頼らざらるを得ない学生を含めた人々が命をつなぐためにどれほど苦渋の思いで毎日の生活を送っているのかを考えれば、公明党が衆院選挙で公約したからとして、18歳未満だけを対象とした支援に正当性は認められない。
 
 民主政治は、生活に貧し命を辛うじて留めている人々に救いの恒常的な支援を行うものではないのか。
 選挙対策としか思えない給付支援でなく、自らの力で自立できる社会構造の構築が本当の政治がなすべき支援なのではないか。政権がそうしたことをやろうとしているか、できているのかをマスコミは監視し、政権に媚びることのない報道を期待したい。政権に迎合し都合のいいことだけしか語らない、マスコミを騙る政治評論家を含めたコメンテーターはTVに出る資格はない。

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