日々の抄

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 8月の終わりに思う

2022年8月31日(水)

 ことしは沖縄復帰50年、戦後77年。ロシアによるウクライナ侵攻が激化し終息の様子が見えない状態である。かつて日本も「大東亜共栄圏」構築のための侵略、ブレーキの利かない無謀な戦争のためにあまりにも多くの犠牲者を出したことを、終戦(敗戦)記念日のある8月に振り返ってみることは必要と考え,毎年のように多数の記録映像を視聴した。以下■印のついたものが視聴映像のタイトルである。

■失われたときを求めて〜沖縄本土復帰50年
 戦火で失われた鬼瓦の復元。粘土を各地から探し求めた粘土づくりから始められた。戦火で宮良殿内(みやらどんち)の琉球王国時代の復元模写。喜屋武千恵さんは「人を失うことは文化を失うこと」と語る。
■太平洋戦争80年倫敦の山本五十六
 2021年太平洋戦争の一員とされる出来事が記された海軍極秘文書が明らかになった。昭和9年7月当時海軍少将だった山本五十六がロンドン軍縮条約に主席として参加した記録。英米を含め軍縮の会議だったが、もとより日本海軍は軍縮には反対だった。英米との兵力平等撤廃を退け莫大な戦力を保持することを命ぜられた。長時間に渡る交渉の後交渉は決裂。昭和9年12月、国内では交渉決裂を大々的に祝し歓迎され軍縮の時代は終わり軍備拡大にまっしぐらに進んだ。勝ち目のない戦いに抗える軍人として望まれたが、1943年4月18日ブーゲンビリア等要求でアメリカ軍機に撃墜され戦死。海軍の過信による無防備から、米軍によって日本軍の通信が傍受され筒抜けになっていた結果であった。米国にそのような技術などないなどという日本軍の思い上がりが招いた結果である。
■仲間由紀恵・黒島結菜 沖縄戦記憶の旅路
感想なし。
■日本人はなぜ戦争へと向かったのか果てしなき戦線拡大の悲劇 2011再放送
太平洋戦争で戦線が拡大し、資源も欠乏している中、「攻撃優先」の海軍と、「防御優先」の陸軍との利権・権力闘争、軍事力・情報力の過信と権威主義、大本営発表で国民を騙し続けた失敗の隠蔽、振り上げた拳を下ろすすべを持たなかった結果、飢えとを苦しみを抱えた無駄死にを強いられた無謀な戦いの結果、300万人を超える戦死者を出す結果になった記録。
■銃後の女性たち〜戦争にのめり込んだ“普通の人々” 2021再放送
一千万人を擁した国防婦人会の記録。大阪の港町。国債の購入、戦死者の慰霊。満州事変の起こった1931年から。男だけが戦いに参加しているのでなく、嫁して家に閉じ込められることなく、外で社会に役立つと思って力を入れた。市川房枝は「婦人は戦いを好まぬもの。戦争は自分の可愛い子供を殺すのだから反対なのは無理もありません」とした。
 この国防婦人会に目をつけたのは陸軍だった。戦争反対を抑える役目を婦人会に求めたのだ。後の全国に大日本婦人会が作られた。1937年日中戦争突入。婦人会も引き返せない道に歩んでいった。市川房枝も、「ここまで来てしまったら行くところ迄行くより外あるまい。消費の統制、節約運動について婦人の協力なくして全く不可能ということを政府も認識せしめぬ。(女性展望1937)」
 当初前向きだった気持ちが次第に息苦しいものになっていった。金属供出も互いに同調圧力があった。男子を持たぬ母親は半人前以下と言われた。地域別に人数を指定され14歳以上が志願兵として求められた。そして多数の息子たちの戦死者。
 1945年6月大日本婦人会解散。女性たちは本土決戦に参加するよう命じられた。気がついたらもとに戻れなくなったのだ。
92歳の婦人は「今も毎日世の中のことを見ている。そうでなく、おエライサンが言っているとおりにしているとどうなるかわからんからな」と語っていたことが印象的であり、現代に生きるものへの経験から得た貴重な戒めであったと思った。
■それでもボクらは核廃絶
 岸田総理は首相就任会見で、「核軍縮は私の政治家としてのライフワークです」と語っていた。高校生・大学生の若者が核兵器廃絶に向かって行動を起こしている。2013年当時の岸田外相が「核兵器のない世界を大きな目標に向けて・・」として被爆の実相を伝えるための「ユース非核特使」に向けて語っている。今活動している若者は、政府が核廃絶の会議に出ない事に対し、「本来は正々堂々と出て行って条約には参加できない、その理由を述べるべき。核兵器を使ったから日本はこうした経験をしたのだということを会議の場で言うべきではないか。日本政府の態度は不誠実で怒りを感じる」と語っている。今年は20名の若者が締約国会議に参加している。会場で外務省の課長に突然、参加を求める2万人余の署名を見せながら、会議に政府の不参加の意見も求める高橋青年の勇気には感動を覚えた。
■原爆が奪った”未来” 〜中学生8千人・生と死の記録
1945年8月6日の朝、ヒロシマで約8000人の大半が1年生だった中学生が集められ、空襲による火災防止のため家屋を取り壊すために動員されていた。そして無防備のまま被爆させられた。そのうちの6000人が1ヶ月のうちに命を落とした。その被害を可視化した記録である。残されたひとは戦後もその記憶に襲われ続け、77年後の今もトラウマから離れられずPTSDに苦しみ続けている。
■侍従長が見た 昭和天皇と戦争
大戦中、昭和天皇の側近百武三郎の公開された8年に亘る日記から昭和天皇がいかに戦争を考えていたかを紹介している。昭和天皇は懊悩していたという。ヒトラーの敗戦近い苦悩も知らされていたという。
陸軍が政治に関しているから好ましからざる方向に進んでいると思っていた。終戦間近、天皇を補佐する人材も疲弊していた。1944年以降の戦死者は、総数310万人の9割だったとされる。百武は天皇に進言できる人を求めた。だが、政治をすべて軍人が行っていたことが敗戦の大きな要素だったのではないかという。辞め時を知らない国に勝機はなかったのだ。
■ビルマ 絶望の戦場
インパール作戦の英国との闘いが終わったあと1年間の記録である。1944年3月、物資も兵力の補給もない状態で、3万の兵がその8倍以上の英国に挑み470キロもの行軍させられ、幾多の兵が無駄死にさせられたとされていたが、その後10万人もの戦死者がいたことが英国の記録で明らかにされた。これほど無謀な戦いはない。ビルマ方面軍参謀長田中新一は勝ち目がないと知りながら、兵を進軍させ自らは命を落とすことなく帰国している。英国軍は「日本軍の指揮官は、自分たちが間違いを犯したことを認める勇気がなかった」と評していた。ひとの命の尊厳など考えない、ただ勇ましさだけで戦わせた無謀な結果に終わった。多くの死者を出したことへの責任はなぜ問われなかったのか。
■空の証言者〜ガンカメラが見た太平洋戦争の真実〜
米軍機による膨大な映像、緻密なデーター収集の記録。権威主義、軍の利権、精神主義で突き進もうとし、情報偽造で国民を欺き続けた日本軍との大きな違いを知った。
■戦禍の中の僧侶たち 浄土真宗本願寺派と戦争
「かつて私達僧侶はお国の為正しい行為だから決して人を殺しても地獄に落ちないといってご門徒さんを戦地に送り出していった。学んできたはずです。この国の人達の生命をどんな理由があってもやってはならない」。「殺すな、殺させるな」とウクライナ侵攻への署名活動をする僧侶の姿が77年前にあったらどうだろう。
■久米島の戦争 なぜ島民は殺されたのか
太平洋戦争末期の1945年6~8月、沖縄の久米島で日本軍が住民計20人をスパイとみなして次々と殺害する事件が起きた。沖縄本島でも巡査が日本兵に殺害されている。これまで住民の多くが事件について沈黙を守ってきたが、去年発刊された「久米島町史」には、悲劇を風化させてはいけないと重い口を開いた住民の証言が多数収録され、事件の複雑な背景が明らかになりつつある。なぜ住民は殺されたのか。米軍資料や新たに見つかった日本兵の日誌も分析、事件の深層に迫る。
■誰が島を守るのか 〜沖縄 若き遺影隊員の葛藤〜
■そして学徒は戦場へ
■選 新ドキュメント太平洋戦争「1941開戦」→2019年12月の再放送
■NO WAR プロジェクト つなぐ、つながるSP「戦争と嘘=フェイク」
■新・ドキュメント太平洋戦争1942大日本帝国の分岐点(前・後編)

 膨大な映像を毎年観るにつけ思うことは,大東亜の諸国民を幸せにするために戦いがはじめられ一度戦争への道を進み始めると,国が滅びる寸前までに追い込まれないと戦争は終われないという事である。太平洋戦争での決定的な過ちは,最終段階で政治を軍部だけで司ったことだろう。海軍と陸軍の利権争い,権力闘争に似た勇ましい言動が優先し,逆らうものは政治家といえど排除されるという図式は,正にブレーキの利かない壊れかけた重機が大いなる悲劇を招いたことと心すべきことと思う。
 敗戦の決断をもう一日でも二日でも早めれば,広島,長崎の悲劇をはじめとする,武器を持たぬ国民の死は避けられたのである。戦地に赴き幸運にも帰還できた兵士は,間近に見てきた同僚の死を77年経過した今も想い出すたびに心砕かれる思いで、悔恨の気持ちは最期までなくなることはないだろう。その一方で,兵站がないことを承知で無謀な戦いに参戦させ,自らは帰還したり国民を見殺しにした、インパール作戦,満州での関東軍の撤退、南京事件の毒ガス計画者など数え切れないほどのひとの命の重さを知らない人物が指導者だったことは忘れずにいたい。
 
 ウクライナ侵攻を見て、「日本の防衛費を2倍にせよ、敵基地を先制攻撃できるように」などという勇ましくも現実離れした物騒な「アジ教宣」が政治家が流布していることは,我が国が多くの犠牲者を出した経験を忘れている所行ではないか。敵基地を先制攻撃すれば,日本は国民の意思に関わらず核攻撃をはじめとする猛烈な攻撃を受け多大な被害を被ることを想像できない人物は政治家の資格はない。
 
 いま日本が求められていることは,太平洋戦争で行ったことを史実に基づいてしっかり見直し反省し,今後に生かすことである。武器を増やすことでなく,外交で力量を蓄え発揮することではないか。いまになっても「南京事件はなかった」「慰安婦はいなかった」「極東裁判は誤りだった」などと平然と言っている人物が、平然とマスコミで偉そうに出ている限り、この国は世界から信頼されまい。政府寄りの情報を情報通のように語っているコメンテーター、御用政治評論家に騙されないだけの見識は持ち続けていたいものである。
 一度戦いへの道を歩み出せば引き返すことは困難である。そうならないためには、国民一人ひとりが、「オエライさんが言っていることをまずは信じないこと」である。それを信じたがために国が引き返せなくなった経験を生かすための一歩ではないか。
 いまの日本は危険な道へ進もうとしている気がしてならない。
 

 群馬県中之条町林昌寺に「おろかもの之碑」がある。この碑は、大政翼賛会、軍人会などで要職に就いていた地元有力者らが戦後,公職追放解除を機に「あづま会」を結成。「生まれ変わった気持ちで郷土に尽くそう」との思いだったという。その会合の中で「私たちが音頭をとって送り出した若者が何人も死にました。本当に申し訳ねえことをしたもんです」。として碑の建立計画が持ち上がった。「心ならずも戦争に協力したわれわれはおろかものだったという趣旨から『おろかもの之碑』の名づけた」と伝えられている。太平洋戦争開戦から20年後の1961年12月8日に除幕式が行われた。
当時,碑の名が、「英霊に対する侮辱」と反発があったというが、好まずして勝ち目のない無謀な戦にひきこまれ戦地に送り出されて非業の死を遂げたひとびとを「英霊」と呼んで美化したことこそ、彼らに対する侮辱ではなかったのか。命を失った若者こそ戦争犠牲者だったのではないか。「おろか」なのは戦を企て、国民を欺き続けた軍部、戦果にに酔いしれ、我が子を含め戦地に送り出した人々ではないか。
国中で戦争に参加させ,参加させられたことを反省し後世に記録を残すことこそ、再び戦を起こさず、参加せず、非業の死を遂げた人々へ手向けることが必要なのではないか。私の住む群馬県にこの碑が残されていることを誇りに思う。

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