日々の抄

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 鎮魂の8月の終わりに その1

2023年8月30日(火)

 ことしも太平洋戦争で失われたひとびとを想い悼むために、戦争記録の映像を多数視聴した。再放送されたものも少なくないが、毎年のように新しい発見があった。以下が主に視聴したタイトルと概要であり、膨大な時間を要した。戦中派である自分が生きてきた時間と多くは重なる。もし、あと数年早く生まれていたらどうなったかを思うと他人ごととは思えない。命を落とした人々を思うと、悲しみとともに、戦争を引き起こした人々に対する怒りが沸き返る。タイトルはじめの数字は放映日時。

23.8.3 原爆裁判60年 現代への教訓
 「原爆裁判」とは広島と長崎の被爆者や遺族5人が「原子爆弾の投下は残虐で、無差別爆撃などを禁じた国際法に違反する」と訴えを起こした裁判。判決以外の原爆裁判の記録は廃棄されていたが、担当した弁護士が訴状や意見書、口頭弁論調書など貴重な数十点を保管していた。
 そして1996(昭和71)年、国際司法裁判所は初めて核兵器の使用と国際法についての勧告的意見を「核兵器の使用や威嚇は、一般的には国際法の上では人道主義の原則に反する」と記された。

23.8.4 夏服の少女たち~ヒロシマ・昭和20年8月6日~
 広島で被爆した高女生にかかわる記録。

23.8.5 「玉砕 隠された真実」
 アッツ島は太平洋戦争で初めて「玉砕」が起きたとされる地である。日本軍はアッツ島に進駐したが、敵の圧倒的な兵力に増援要請したにも関わらず空返事をし、大本営はアッツ島の兵を見捨てた。大本営は「アッツ島守備隊から増援要請がなく、名誉の為に玉砕した」と偽りを強調したが、事実上の「玉砕」命令つまり自決命令が出された。
 ニューギニア島でも大勢の兵士の命を切り捨てておきながら、大本営は生き残った人々に強い緘口令が敷かれていた事が元兵士から証言された。「玉砕」は「敗北」をごまかして作られ、東條英機首相はアッツ島の玉砕を国威発揚に利用した。

23.8.5 「雨の神宮外苑 ~学徒出陣・56年目の証言~」
 太平洋戦争の戦局の悪化に伴って20歳以上の学生が徴兵猶予を解かれ、80年前、昭和18年10月21日に国立競技場で男子学生2万5000人と、それを見送る女学生たちおよそ6万5000人が参加して出陣学徒壮行会が開かれた。これまで広く知られた映像はニュース映画として5分40秒だったが実際は15分あったという。このフィルムは制作されて今日に至るまでほとんど公開されたことはなかった。このフィルムにはニュース映画とは違い学生の表情が克明に映された。代表の宣誓はいかにも勇ましいが悲壮感が漂っている。出征すれば戦死する可能性が高い任務につくことを知ってのことだろう。ゲートに近かった女学生達は雪崩のように泣きながら行進に駆け寄ったという。この壮行会で行進した学生のうち3000人以上が戦死したという。

23.8.5 「いのち眠る海 最新調査で明かす太平洋戦争」
 日本政府は、太平洋戦争中に海外で戦死した日本人の遺骨収集を行ってきたが、海中の遺骨は原則収集してこなかった。ダイバーが海中で撮影した戦死者とみられる遺骨が、SNSに投稿されるケースが相次いでいる。マリアナ沖海戦で沈んだ航空機。海底に眠る残骸を分析すると、過酷な作戦の末に海に沈んだパイロットの最期が浮かび上がった。一方「海の墓場」とも呼ばれる旧トラック島では国の遺骨調査が始まった。

 戦後78年も経過しているのになんと言うことだろう。望むことなく戦地に赴き命を失った若者および遺族の無念は察するに余りある。沖縄ではガマで失われた遺骨が多数残されている。その遺骨が残されている土壌を辺野古の埋め立てのために使うという。なんと罰当たりな行為だろう。政権の無神経さは信じがたい。現在の平和な日本のために戦塵に散ったひとへの敬意を持たぬ暴挙である。

23.8.5 「ETV特集 ミッドウエイ海戦 3418人の命を悼む第二部 残されたものの戦後」
 作家・澤地久枝さんは40年前、日米でミッドウェー海戦の戦死者調査を行った。繰り返し戦争を経験してきたアメリカで「戦争による死」がどう扱われてきたのかに注目してのことだった。現在92歳の澤地さんの思いに迫った。

23.8.6 「原爆が奪った未来 中学生8千人・生と死の記録」
 8月6日の朝、広島の中心部には、軍の主導で、空襲による火災の被害を抑えるために、木造家屋を取り壊す作業に動員され8000人の中学生が集まっていた。原爆投下から1か月の間に8000人のうち、およそ6000人が命を落とした。
 核兵器の脅威が現実に感じられているいま、中学生8000人の記録から、子どもたちを襲った惨禍の実態に迫り、78年前を生きた中学生たちの「命の記録」が残した経験が、いまの時代に重い教訓を突きつけている。

23.8.6 「BS1 スペシャル原爆初動調査隠された真実」
 長崎原爆投下後の初動調査で残留放射線が米国によってなかったことにされていた。
 爆心地点から3kmの山間にある農家が多い西山地区で、原爆投下後体調不良のひと、死者が多く出た。西山地区は山に閉ざされ原爆の影響はなかったとされていたが、黒い雨を浴びた。ドロドロとした黒い雨だった。
 米国内でも「原爆投下後70年は草木も生えない。原爆は国際法に違反した兵器ではないか」と報じられ世論が高まった。これはマンハッタン計画の総責任者グローブス少将にとって不都合であった。初動調査にあたった調査員ドナルド・コリンズの遺族によると、コリンズは1945年9月調査団に一員として長崎に赴き、米軍が神経を尖らせていた残留放射線の調査にあたった。爆心地から51キロ地点では通常の2倍もの残留放射線を計測している。
 報告書はTop Secretにすべきで、「これに関係する文書やデータはすべて廃棄しすべてを忘れろ。報告書を書いたことも忘れろ」とグローブスは命じた。「残留放射線の測定結果と人への被害の臨床的な証拠がないことを考えると、爆発後 有害量の残留放射線が存在した事実はない。人びとが苦しんでいるのは爆発後の放射線のためであり、残留放射線のためではない」。次々に分かる不都合な事実に、グローブスは見解を変えようとはしなかった。グローブスは1945年11月28日議会で証言をした。その記録によると、「残留性放射線の影響はなかった。爆発が非常に高い地点で起きたため放射能による後遺症は発生しませんでした」と偽証した。陸軍省は放射能被害を認めると倫理的に間違いを犯したことになるという思いが問われると、「この問題は一握りの日本国民が放射能被害に遭うか、それともその10倍ものアメリカ人の命を救うかという問題であると思う。これに関して私はためらいなくアメリカ人を救う方を選びます」とグローブスは客観的事実を捻じ曲げ問題をすり替えている。

 日本の陸軍戦災(放射能に関する)調査報告書(1945年8月15日)には「人体に影響を与えられるほどの放射線は測定できなかった」と虚偽の報告をしている。日本の科学者は米国の調査に協力しながらも、残留放射線の人体に対する影響を調べた。GHQ経済科学部局幹部は「日本人の原爆研究は許さぬ」とした。日本人科学者はこの発言に激しく反論。「広島と長崎ではここで発言している瞬間にも原爆症で次々と死亡しつつある。原爆症はまだ解明されていない新しい疾患で治療方法はない。例え進駐軍の命令でも医師が苦情の問題について研究発表を禁止することは人道上許しがたい」と反論するも認められなかった。
 長崎市西山地区には 体調不良や原因不明の死が続いた。米軍の調査の対象にされながらその事実を一切知らされず、住人は「これは人として見ていない感じがする。実験みたいにしているなって」。戦後核兵器の開発をしていった世界は残留放射線の存在に目を背け続けていた。ソ連との核兵器競争の時期、人命より政治が先んじていた結果だろう。
 (Ru-106)や(Ce-144)が体に入ったらどこにいくか分かる。プルトニウムはストロンチウムは骨に、セシウムは筋肉とあり、核種同定は必要であり、核種の情報が日本に伝えられていたら原因不明の体調不良を訴える住民への研究が進んでいた可能性があるという。
 米軍にとって不都合な科学的結果は政治によって隠蔽され、虚偽の報告がなされた。
だが、その後の調査でそのことが明るみに出たことは後世に生かされるべき事である。
 取材班の懸命な努力(初回放送日: 2021年12月29日)でアメリカによる原爆の闇が明らかにされたことは歴史に残される資料となるだろう。アメリカ人がどれほどこれらのことを知らされているのだろうか。

23.8.6 「原子爆弾・秘録 謎の商人とウラン争奪戦」
 コンゴで採掘されたウラン鉱石を大量にアメリカに売り込んだとされる「謎の男・エドガー・サンジェ」が母国のベルギーの国立公文書館に残した3万ページにおよぶ未公開資料が見つかった。彼はベルギーの植民地だったコンゴに派遣され、会社の収益の柱となる銅の生産を任されていたが、そこで純度の高いウラン鉱山と出会い、いつか活用方法が見つかれば市場を独占できると先行投資を決めた。そのことが、後にアメリカがこのウラン鉱石を主な原料に2発の原爆を生み出し、人類に惨禍をもたらすことになった。コンゴが独立する1960年までサンジェがアメリカとイギリスに渡したウランは広島原爆を3500発作り出せる量にのぼった。その間アメリカはほかにもウランの入手先を増やしながら194回の核実験を繰り返した。核兵器が現在も人類の存亡に危うさを感じさせるなどと彼は考えただろうか。

23.8.7 「NHK特集 爆撃機ローンサム・エディー号 広島原爆秘話」
 1945年7月、アメリカのB24爆撃機ローンサム・レディ号は呉の軍港を攻撃したものの撃墜されて乗組員は捕虜に。そのうち5名が、移送先の広島で原爆によって死亡。新たに発見された外交文書からローンサム・レディ号の乗組員を探しあて、取り調べにあたった元憲兵から当時の証言を聞き、亡くなった乗組員の遺族と生き残った機長らをアメリカに取材。戦争は敵味方にかかわらず悲劇をもたらしたことを知る。

23.8.7 「発見 昭和天皇御進講メモ~戦時下 知られざる外交戦~」
 1920年10月、旧家の屋根裏で発見された昭和天皇と太平洋戦争に関わる、宮内省御用掛・松田道一が1933年から敗戦までの12年間行われた500回以上にわたる御進講の記録。今回は1942年のバチカンとの国交樹立や終戦を巡る天皇の決断を探った。

23.8.9 「BS1スペシャル 玉砕の島 語られなかった真実 テニアン島」
 1944年8月、テニアン島で日本軍は玉砕し、日本人移民も両島で1万3千人以上が犠牲になった。島民、日本人移住民も巻き込んだ壮絶な戦いの記録。広島・長崎に原爆投下した航空機はこの島から飛び立った。

23.8.9 「歴史探偵 消えた原爆ニュース」
 1951年7月、原爆被害の様子を伝える写真の展示を行った学生が警察によって逮捕されたように、戦後の日本では原爆被害の実態を公にすることが難しく、1945年の終戦から6年間、原爆被害の詳しい状況が伝えられなかった。GHQによる事前検閲は1948年に終了している。放射線の影響についても詳しくは報じられなかったとされる。
 「戦後はアメリカ様になった」「日本のメディアは発行停止処分を恐れ、場合によっては軍事裁判で有罪を言い渡されることもありえた」などという。

23.8.12 「報道特集 日本人として戦地に赴いた台湾出身の青年たち」
 日本の統治下にあった台湾。およそ21万人が日本の軍人・軍属としてアジア太平洋戦争を戦い、少なくとも3万人が亡くなった。戦後シベリア、モンゴルなどに抑留された人もいる。補給のないジャングルで、ほとんどの兵士が飢えと病に倒れた「インパール作戦」に参戦したひともいる。日本に変わって台湾を中国国民党が統治した。
 96歳の元老兵士は、「今でも私は日本人です。やっぱり死ぬまで日本人なんだ」と言う。だが、「台湾政府にとっては元敵国の兵士、日本政府にとっては既に外国人。戦後はどちらにも頼ることが出来ませんでした」という。1974年、インドネシアのジャングルで台湾出身の日本兵が発見されたことがあった。終戦を知らずに30年も彷徨い続けていたのだ。衣服はぼろぼろで裸同然だったが、三八式銃は最後まで手にしていたという。
 台湾の元日本兵らが軍人恩給などの補償を求める訴えを起こしたが、認められなかった。“日本のために命を落とした台湾出身日本兵の慰霊碑を誰もが足を運べる場所に建てたい”という台湾の老兵士の言葉は余りにも重い。日本人のひとりとして恥ずかしい限りだ。

23.8.12 「NHKスペシャル 新・ドキュメント太平洋戦争1943 国家総力戦の真実」
 敗色が濃くなってきた時期、こどもまでもが巻き込まれていく。海軍は、パイロット養成機関である予科練の募集を強化。中学生ら3万人が名乗りをあげた。ノルマに応じて、志願を呼びかけた学校。教師や親は、苦渋の決断を迫られる。

23.8.13 「BS1スペシャル 完全版ビルマ絶望の戦場」

 「8月の終わりに思う」 2022.8.31
 
23.8.14 「紫電改 最後の戦闘機」
 昭和53年(1978)11月、愛媛県城辺町(現在の愛南町)の日土湾で一機の戦闘機が発見され、旧日本海軍最後の名戦闘機・紫電改(しでんかい)と判明。翌年の夏、34年ぶりに海底から引き揚げられた。太平洋戦争終局に米軍のF6F戦闘機、B29爆撃機と戦った紫電改の回顧。

23.8.14 「NHKスペシャル アナウンサーたちの戦争」
 明治憲法下で「表現の自由」は大幅な制限を受けていたが、特に1940年12月の情報局設置後は、言論・報道への指導・取締りが一層強化され、放送協会は国家の宣伝を担うことになった。戦時中、軍部から出された情報を斟酌することなくアナウンサーは放送していた。戦時中のアナウンサーが行っていた、戦地への励まし、大本営からの垂れ流し情報が国民を欺くことに助力してきたことなど、アナウンサーたちの葛藤があった。

23.8.14 「軍人スポークスマンの戦い」
 3人の軍人スポークスマンに注目。開戦の第1報を伝えた者、スターのように人気を博した者、「玉砕」を称えた者に注目して伝えている。
 この資料は「大本営発表綴」1941/12/8~3年8ヶ月の記録を廣石中佐が廃棄することなく自宅に70年間保管していた。廣石中佐は戦後、厚生省の官僚となり、帰還した人や遺族の支援などをしていたという。大本営のいままで知らされてなかった貴重な資料である。
■開戦の第一報を伝えた者、
 12月8日の午前6時の真珠湾攻撃の時の大本営発表を読んだのは大平秀雄大佐。1941年10月に41歳で報道部長となり、12月8日にはその原稿を原稿通りに読んだという。大本営は陸軍と海軍に分かれていて、報道部もそれぞれにあったが、「大本営発表」は陸海軍で共通していた。陸軍の第一部(作戦部)の第二課(作戦課)がチェックし、報道部ができるだけ情報を発表したくても、第二課は自分たちの作戦優先なのであまり発表したくなく、場合によっては事実が捻じ曲げられたという。
 大平秀雄さんは、戦後香川の缶詰会社の社長になり、12歳年下の従兄弟の大平正芳元首相の選挙などを手伝ったという。
■スターのように人気を博した者
 海軍の報道課長の平出英夫大佐は、当時新聞や雑誌に大きく取り上げられ、国民的人気を誇っていた。
 1942年2月のシンガポール攻略の報道に、国民は熱狂。2月18日には「戦捷第一次祝賀国民大会」というパレードのあるイベントが日比谷公園で開かれ、集まった約10万人の人々が、記録映像によると、日章旗(日の丸)や旭日旗を皇居(宮城)へ向けて振っていた。「世界地図を塗り替える偉大なる大和民族が今日こそは誰に遠慮することもなく心からの万歳をし、心からの喜びを爆発できる参りました。陸軍と海軍が共に天下無敵というような国がどこかにありましょうか。これはただ一人日本だけが持って居る所の強みであります」と平出大佐が人々の前で演説をし、メディアとしてもプロパガンダに使いやすいタイプだったのだという。
 平出英夫大佐は、1945年8月、北海道軍需管理局に就いたが、敗戦から3年後、平出さんは脳溢血で亡くなったという。
■ 玉砕をたたえた人
 茨城県水戸市出身の谷萩那華雄陸軍大佐はアリューシャン諸島の「アッツ島の玉砕」で、日本軍の全滅に対して「玉砕」という言葉を使った第一号だった。その時の原稿には、「全力を挙げて」や「神髄」という言葉が付け足されていて、上部には東条英機の花押もあった。「アッツ島守備隊の山崎部隊長は援軍や食料や弾薬の要求をしたことがない」と言っていたのは谷萩で、それは全くの虚言だった。
 谷萩那華雄陸軍大佐は赴任先のインドネシアで戦犯として捕まり、現地で銃殺刑に処されたそうだが、番組スタッフが谷萩大佐について調査する中で、1963年の5月6日の『読売新聞』の夕刊に「遺骨25柱帰る」という見出しが付いていて、谷萩大佐の名前も書かれていたが、遺族によると、骨壺には白い紙が入っていただけで、骨は帰って来なかったという。
■ さらなる虚報
 1944年10月の台湾沖航空戦の時には、大本営はもっと酷い嘘をついた。10月20日の「米英撃砕国民大会」というイベントには当時の小磯首相も出席していて、集まっている人々は“日本軍の勝利”に喜んでいたが、台湾沖航空戦は「壮大な虚報」であり、「幻」で、アメリカ軍は空母を1隻も失っていなかったのに、日本軍の戦闘機のパイロットはアメリカの戦艦を沈めたと上司に嘘の報告をしていた。そして日本軍はそのパイロットの嘘の報告を検証せずに事実としてそのまま積み上げ、日本軍は勝っていると思い込んでいたのだ。

 日本国民(臣民)は大本営の発表を信じ、戦場で戦うことを、お国のために命を捧げることを美化し、これにまんまと騙され続けていた。だが、終戦近くになってからは、大本営発表に疑いを持つものがでてきていたが、反戦、負け戦、敗戦などという言葉を口にすれば「非国民」と蔑んだ。軍部が大本営発表を通じていかに国民を騙し続けてきたかをみれば、公共放送といえども何が本当で何がフェイクなのかを見極める力をつけない限り、同じ思いをさせられる可能性は現在もあると思うべしである。

23.8.15 「BS1スペシャル ヒトラーに傾倒した男 A級戦犯・大島浩の告発」
 “ナチス・ドイツに最も食い込んだ日本人”元駐ドイツ大使・大島浩の残した12時間に及ぶ初公開の肉声テープが紹介された。日独伊の三国同盟を是とする助言をしてきた太平洋戦争のキーパーソンが語る戦時外交の舞台裏についての紹介。

23.8.15 「NHKスペシャル Z世代と”戦争” 」
 太平洋戦争では、多くの若者が国家によって戦地に送り出され命を落とした。終戦から78年、Z世代と呼ばれる10代から20代の若者たちが「戦争」についてどのように考えているかの紹介。

23.8.16 「昭和の選択 平和を手放した日 幣原喜重郎 国際協調外交の誤算」
 国際協調と平和主義をかかげたが、軍や大衆に弱腰と非難され戦争への道を開いてしまった。その失敗から真の国際協調とは平和を導く外交とは何かを探る。

23.8.16 「昭和の選択 選 太平洋戦争 東条英機 海戦への煩悶」
 1935年満州国創設時関東憲兵司令官、1937年には関東軍参謀長、日中戦争の推進者になった。日独伊三国同盟の締結に、対英米戦争の準備を進めた。後に現役軍人のまま首相になり、太平洋戦争を開始し、大東亜共栄圏建設の宣伝。さらに参謀総長を兼ね軍・政を掌握。日本が中国と泥沼の戦争を続け、アメリカとの対立が不可避となってきた頃、戦争回避が天皇の意志であることが厳に伝えられ、東条も組閣などでそれに応じた布陣を行うが、結局は陸軍を抑え込むことが出来ず、最終的にはアメリカとの交渉は決裂して戦争に突入させてしまう。戦局は悪化しサイパン陥落で本土が爆撃される状況となって辞任に追い込まれる。

23.8.20 「心の時代「はだしのゲン」と父 翻訳者・坂東弘美」
 海外で多数翻訳されている「はだしのゲン」を中国語に坂東弘美さんが翻訳した。翻訳と父親との関わりについてのドキュメント。
 
 「鎮魂の8月の終わりに その2に続く」
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