戦後79年の夏の終わりに |
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2024年9月12日(木) 戦後79年目のことしも、戦争記録の映像を可能な限り視聴した。オリンピック年のことしの放映は 8月15日以前に少なかったように感じていたが、それ以降例年に近い放映が見られた。過去年の再放映も見られたが、毎年こうした映像を見る機会をいつまでも続けてほしいと思う。全部で24作品だった。 もう、「戦争のことは見たくない、聞きたくない、自分には関係ない」という言葉を戦争経験のない年齢層に増えていることは否めない。大戦中に何があったかを知らない国民が多くなれば、望むことなく戦禍に散った人びとの犠牲がなんら生かされることになるまい。まずは事実を知ることが求められるのではないか。 以下タイトルを放映順に記しておく。 ・戦争遺産島 加計呂麻島 200を越える戦争遺産が島 ・戦争遺産島 似島 1万人の被爆者が運ばれた島 ・戦争遺産島 大津島 特攻兵器の訓練基地となった島 ・戦争遺産島 猿島 東京湾の要塞島 ・ETV特集 戦艦大和 封印された写真 ・原爆 いのちの塔 ・ドキュメント 少女たちの公式-遠き人へのメッセージ ・NNNドキュメント’24 「生かされて~原爆投下79年目の決意」 ・レジェンドドキュメント 原爆資料館 閉ざされた40分 検証G7広島サミット ・新・ドキュメント太平洋戦争1944 絶望の空の下で ・報道特集戦後79年「戦争と子どもたち」 ・ETV特集 隔離と戦渦~沖縄 ハンセン病患者たちの受難~ ・ドキュメントJ お寺と戦争と私 ・つなぐ、つながるSP 科学が変えた戦争 ・昭和の選択 戦争なき世界へ ~国際司法の長・安達峰一郎の葛藤~ ・BS1スペシャル「マルレ~特攻艇隊員たちの戦争~」 ・時事論公論 記録が語る”戦争裁判” ・NHKスペシャル グランパの戦争~従軍写真家が残した一千枚~ ・NHKスペシャル ”一億特攻”への未知 ~隊員4000人生と死の記録~ ・新美の巨人たち 【戦没画学生慰霊美術館「無言館」×内田有紀】 ・ETV特集 昭和天皇 秘められた終戦工作NHKスペシャル ”最後の1人を殺すまで”~サイパン戦 発掘・米軍録音記録 ・ハロー!NHKワールド JAPAN 平和をテーマに世界に発信 ・NNNドキュメント!24「学生たちの戦争 学徒出陣 ペンを銃に変えて」 ・NHKドラマ「 昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」 以下、いくつかについて記しておきたい。 冒頭の「戦争遺産島」は、かつての軍事施設を生々しく見せつけた。その中の「大津島 特攻兵器の訓練基地となった島」は二度と帰還することのできない特攻兵器である人間魚雷「回天」(その基地は全国に4箇所あった)では、訓練中出撃する前の訓練中での死者は全国で15名いた。1944年11月8日出撃開始。終戦のわずか1年前のことだった。狭い甲板内で時計とコンパスだけで操舵することは至難の業だったに違いない。出撃前に帰還できないと覚悟して、親、家族への感謝の気持を伝えて行った。回天での戦死者は106人、平均年年齢は20.9歳。米国の被害は 3機ほどだったという。 「「マルレ~特攻艇隊員たちの戦争~」」 敗戦が明らかになりつつある時期、15歳から19歳の少年たちから編成された。マルレとは、1945年3月以降編成された、連絡船の頭文字「レ」をとったもの。連絡挺を急遽改造した木造船で敵戦艦に突撃するという、人間を単なる砲弾としか考えてなかった作戦だった。連絡船から、曖昧な意思決定により特攻戦と化したもので、戦死者は1800名。戦死した場所は沖縄周辺の海域だった。木造船で米艦艇に損害を与えることなど狂気の沙汰としか考えられないことである。 「グランパの戦争~従軍写真家が残した一千枚~」 米国の従軍カメラマンであったブルースさんの孫マリアが祖父の残した膨大な写真を追った記録。 残された写真の中には、星条旗を掲げる米国の象徴的な写真だけでなく硫黄島での目を背けたくなるような若い兵士たちの姿があった。マリアは自ら子供を持ってから、犠牲になったひとも誰かの愛おしい子だったと想像すると母性に似た気持ちが一杯になったという。 また、終戦直後の日本国内の姿が残されていた。その中に、殆ど残されない進駐軍相手の娼婦の姿が残されていた。彼女たちが笑顔を見せていた写真もあった。終戦後家庭内で働くひとを、家を、衣服を失い、そのようなことでしか生きられなかった悲しさと苦しさがあったに違いない。日本軍がかつて中国で行ったと同じように、国内の婦女子を守るためとして、東久邇内閣と米軍との合作である特殊慰安施設協会=RAAと称する、「性の防波堤」が設けられた。これに関わった敗戦時警視総監だった坂信弥は戦中、慰安婦施設設置に関わったという。 これほど女性が生きるために苦渋をなめさせられ、後に語ることのできない経験が戦後の悲惨な傷跡のひとつだった。もし、彼女たちが自らの母、姉妹、子だったら戦争を導いたひとびとはどう思ったろうか。 祖父ブルースさんが残した貴重な写真はこれからどのように語りかけていくのだろうか。 ”一億特攻”への未知 ~隊員4000人生と死の記録~ 1945年10月25日フィリピンから初の特攻兵が出撃した。春秋に富んだ若者を敗戦を知りながら死に送り込んだ結果、特攻で死亡した人は、「特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると、海軍 4146人、陸軍 2225人、合計6371人だったという。特攻攻撃を昭和天皇に上奏すると「・・・よくやった 」と語ったと伝えられている。家族へ「お国のため・・・」と苦渋と悲しさを抱えて命を捧げた10代の若者の心中はいかばかりだっただろう。勝ち目がないとわかった後で拒むことのできない出撃を命じた軍部の大罪はあまりにも大きい。 「昔はおれと同い年だった田中さんとの友情」椰月美智子原作の児童書をの映像化。 スケボー好きな小学生3人が、戦争経験者が身近にいることを知る。町内で戦災死したひとが23人だったこと、そのうちの2人が田中さんの母と妹であったこと、田中さんの足に残された火傷痕を見て、戦争の跡が自分の身近にあったこと、そんな田中さんが70年間一人で神社の社務所で戦後どのような生き方をしてきたかを思い、田中さんを通して、戦争経験は「知らないで済まされない」と思った。 クラス、学校、地域に働きかけて田中さんを語り部として講演を依頼。田中さんは町内のひとの好意で現在に至っていることに感謝して生きてきた。 講演の最後にあった児童からの質問のひとつに、「かつて軍国少年だった田中さんは戦争することをおかしいと思わなかったのか、なぜ終戦後、戦争を否定するようになったのか」との問いかけがあった。田中さんは、「終戦後、先生は教科書に書かれていることを墨で塗りつぶせと言った。そのとき担任の先生は泣き出した。なぜ泣いたのかその時は分からなかった。後に、自分はまわりに流されて自分で考えることをしなかったことに気づいた。自分で考え、自分が正しいと思うことをしようと決めた。人間としてひとりになって 考えどう振る舞えばいいか考えた。それがひととして生まれてきた意義と思った。名誉のため、お国のためなどいうのは間違っている。ひとが死んでいいはずはないそんなのおかしい。だから戦争には反対だ」と切々と訴えた。 田中さんは講演後、校庭で少年に「今まで考えていたことをすべて話せた。ありがとう」と語り、その翌年田中さんは亡くなった。少年は田中さんのことを伝えていこうと思ったと言う。戦争が自分とは無関係、今更なんで、と思うひとへ投げかける秀逸なドラマだった。 300万人を越える国民を失うことになった無謀な戦争に導いた軍部責任者の責任は連合軍に裁かれても、日本国民からは裁かれてない。戦争を引き起こしたA級戦犯と呼ばれる軍部指導者が望むことなく命を奪われた兵士が同時に祀られているという靖国参拝に毎年のように詣でる現役政治家がいることは理解しがたい。「戦渦に散った英霊に敬意を・・・」というのなら、千鳥ヶ淵戦没霊園に詣でればいいのではないか。A級戦犯を「神」と崇める故に神社である靖国神社に詣でるののではないのか。 戦時中にあった日本の行った加害行為を証言するひとが沢山いるにも関わらず、都合の悪いことを「なかったこと」にする風潮がある。政治家の中にも同様の考えを見てきたように語る人物が少なからずいる。自分は命令に従っただけだというひともいる。だが、あの悲惨な戦争は二度とあってはならない。 現実はどうか。専守防衛に反する敵攻撃を察知したら攻撃を可とする、原子力空母の所有は国防と矛盾しない、財源の保証を考えずに政府が進めようとしている防衛費を増大することの何がいけないのかと、勇ましい言葉に押されていれば、かつてあった時流に抗えない風が社会全体に流れていないか。 毎年、一年に一度は日本がなぜ戦争をはじめたのか、被害のみならず加害についても記録を紐解いて考えてみる機会がこれからも続けていかなければならない。来年は終(敗)戦80年目である。しっかり日本が歩んできた道、これから歩むであろう道について考えてみたい。 |
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