日々の抄

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 それはないでしょう 

2006年02月21日(火)

 昨日の報道によると、『日本郵政公社は07年10月の郵政民営化のスタートまでに、主に過疎地や郡部にある約1000局の「集配郵便局」での郵便物の集荷・配達業務をやめる方針を決めた』そうである。

 全国に集配郵便局は約4700局あるが、そのうちの約1000局が郵便物の集荷・配達業務をやめるという。窓口業務だけをする「無集配局」になるということだ。つまりは、葉書を出したければ自分で郵便局まで持参し、自分宛に来た葉書は自分で郵便局まで取りに行くことになるということなのか。私書箱のようなものになるのか。対象となる集配局は、北海道や東北、中国地方が多くなる見通しという。これに伴って規模の大きい約1100局を「統括センター」(仮称)に衣替えして郵便物集荷の中核拠点とし、現在よりも広域で集配をさせるというが、地域に根ざした郵便局が、一人住まいの老人とのコニュニケーションを図るなどの地域貢献ができなくなるのか。郵便配達が単に郵便物という物を配達をしているだけでなく、気持ちも配達していることが分かっていないのではないか。たしかに、『「集配郵便局」での郵便物の集荷・配達業務をやめる』としていて、郵便局がなくなるとはしていないが、なくなることと同じである。

 『民営化に際して「原則として過疎地の郵便局は維持される」(竹中郵政民営化担当相)と公約』していたが、集配停止で実質的なサービス水準が低下する地域も生じることは間違いない。車を運転できず歩くこともままならない人に郵便物は必要ないということなのか。郵政公社は、全国の郵便局職員や労働組合などに対し、「集配拠点を効率よく再配置するのが目的で、配達などの住民サービスに影響はない」と説明しているが、本当にそうなのか。銀行がなくて郵便局しかない地域で集配がなくなることが、過疎の地に一層の不便さと過疎化を進ませることは確かだろう。集配をやめる郵便局が多いと思われる過疎地、郡部で郵便物の集配頻度が減少したり、従前より配達に日数がかかったりすることがないといえるのか。

首相は『改革の本丸が郵政民営化、恐れず、ひるまず、とらわれず改革を断行する、民営化の目的のひとつが「ムダ」の排除、郵便局は私たちから集めた350兆円の資金の一部を道路公団や特殊法人、かんぽの宿など、赤字で批判が強い事業につぎ込んできたことが解消する』としてきた。また、竹中氏は、『(郵政民営化の)メリットはコンビニ化だ。全国2万4000ある郵便局ネットワークは、ローソンやセブン−イレブンの店舗数の約3倍にあたる。ところが、普通のコンビニが2000〜3000 点の商品を扱っているのに対し、郵便局では郵便、郵貯、簡保という3つの商品しか売られていない。……民営になれば、そうした制約がなくなるから商品の種類を増やすことができる。当然、既存のコンビニとの競争も生じる。それによって、国民にとっての利便性はずっと向上するはずである』としてきた。

総選挙中、首相は「郵便局が減って過疎地の人が不便になることはない」と言い切っていた。また、メールマガジン第154号では『読者の皆さんから、民営化すると身近にある郵便局がなくなってしまうのではないかと心配のメールをいただきますが、そんなことはありません』としてきた。過疎地や郡部にある約1000局の「集配郵便局」での郵便物の集荷・配達業務をやめることが、弱いものいじめになるのではないか。過疎地の人が不便になることはないどうして言えるのか。これは典型的な地域格差ではないか。政治には、国民に等しく便利さを提供していくことが求められているのではないか。都会の便利な土地に住んでいる人間が、集配停止は国のために必要なのだから仕方ない、などと思っていたなら奢り以外の何ものでもない。そんなことより、ムダの排除、道路公団や特殊法人、かんぽの宿など、赤字で批判が強い事業につぎ込んできたことを解消することが先決問題ではないのか。これらの責任をいったい誰がどのようなとったのか、聞きたい。また、特別予算の使途の明示、天下りで甘い汁を吸っている人びとを何故なくすことができないのか。

 「集配郵便局」での郵便物の集荷・配達業務をやめることよりも、早急にやらなければならないことが山積みしていることを、為政者は切実に思ってほしい。いまの政治家は「弱者救済」を本気で考えているのか。約1000局もの郵便物の集荷・配達業務をやめることは公約違反にならないのか。

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