日々の抄

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  贔屓の引き倒しをしてないか

2006年02月28日(火)

トリノオリンピックが終わった。それぞれの選手がそれぞれ頑張ったのだから、メダルがいくつだろうがそれでいいと思っていたが、さすがにメダルが1個だけだったことは少々淋しい。長野オリンピックでのときから(メダルは20個ほどだった)衰退して来たことは否めないだろう。4位入賞がいくつもあって惜しい結果があった。日本は有力選手を擁しているので次回の冬季オリンピックでいい成績を収めるだろうと観測している米国の専門家もいる。官房長官は27日の記者会見で「最後の段階で荒川選手が金メダルを獲得した。重みはふつうのメダルの10個分ぐらいあったのではないか」としていているが1個は1個だけだ。悔し紛れに聞こえてきてみっともないからこういう言い方はやめた方がいい。
今回のオリンピックで、マスコミの事前からの特定の選手に対する報道の仕方が気になる。フィギュアスケートの荒川選手は、代表選手になってからも、金メダルをとることを予想した報道がされてこなかったことが彼女には幸いしたのかもしれない。安藤選手に対する偏った、まるでタレントが出場しているかと思い間違いそうな連日の報道には疑問である。ましてや、オリンピックは勝つために参加しているはず。荒川選手は、「いままで練習してきたことで自分のできることを確実にやっていくだけ」として金メダルを手にしたが、一方、安藤は当日の練習でも殆ど成功していなかった4回転ジャンプを本番でも失敗し、動揺したためかフェンスに危うく衝突しそうな場面があった。マスコミは「4回転ジャンプに挑戦したことは偉かった。その勇気は称賛に値する」という意味の報道をしている。日本を代表して参加している選手が、博打をするような演技をしていていいものなのか。この二人の考え方の違いが、結果に大いに関係したことは言うまでもないが、安藤は15位。村主選手は惜しくも4位に終わったが、メダルを逸したといえ、入賞した村主はTVにでる回数や扱いが少ないのに対し、安藤がなんども顔を見せているのはどういうことなのか。タレント性の有無でマスコミの扱いが違うのはおかしい。それは引退した後のことであるべきだろう。

 荒川が長野オリンピックで入賞できず酷評され、選手を続けるか否かを考えるまで追い込まれていたことと比べると、今回の安藤の結果に対するマスコミの扱いは明らかにおかしい。不愉快である。別に安藤がどうのこうのではない。選手は平等に扱うべしと思うだけである。TVや新聞に出る回数が多くなった結果、天狗になって選手生命を短くすることがなければいいと思う。贔屓の引き倒しにならなければいいのだが。選手を消耗品のように扱うことがあってはなるまい。
 上村愛子の3Dジャンプは見事だったが、斜面がなだらかだったためスピードの出せる選手の方が有利だったとか、フィギュアスケートでは難易度4の演技の数によって得点が決まっているなどを聞くと、選手よりまわりにいるコーチや監督の責任が大きかったように感じてしまう。また、素人目には、ミスをしたように見えず、苦悶の表情で演じた村主のスピンが素晴らしかったと思うのに、2度も転倒した選手が2位になるのは納得しがたかった。
荒川が金メダルをとったとたんに、ツーランドットのCDが急激に売れはじめたり、広告に出ている米が品薄になるなど、いやはやミーハーが多いことに驚くばかりだ。ま、日本人はこんなものか。久しぶりにもう一人の静香代議士がTVにでてきたのは、荒川効果の恩恵か。


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