日々の抄

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  知りたくないこともある

2006年03月22日(水)

 「愛と死をみつめて」という大島みち子さんの書簡集のリメーク版ドラマを見た。この話は何回か映像化されている。はじめは大空真弓と山本學、次は吉永小百合と浜田光男だった。今回のドラマでは昭和30年代を再現するのが大変だったと聞くが、ドラマを見ての感想をいくつか。

 以前のドラマに比べ、現実感が乏しいという感を拭えなかった。いかにも演技している感じで、熱演している二人には気の毒だが、見ていて白けてしまった。大学生が学帽を被り、普段着が白のワイシャツという質素さが懐かしい。下宿の相部屋、共同炊事場も懐かしい。町並みも道行く人もみな見慣れた風景だった。それらと主人公の二人が浮いている感じがしていた。いかにも現代っ子の感じが物語に馴染んでいないのである。熱演ではあるだろうが、真実みが伝わってこなかった。物語の内容は不治の病に冒されている女性をひたむきに愛し続けていくマコ君の姿は感動的ではある。主治医が「人は弱いから愛が作られた」という言葉は心に残るものである。なのにこの白けた気分はどこから来ているのか。

 それは、二人の主人公の人となりや私事が知られすぎていることのようだ。嘗てのスターと言われていた人達のプライベートは雑誌などに載せられるごく少ない情報だけであったから、彼らの未知な部分に夢を感じたり想像を膨らませることができた。だが、現在は事情が大分違う。演技がよければ私事は関係ないと聞くことがあるが、そうはいかないものだ。女主人公が悲劇のヒロインを演じ、帰宅してから乳飲み子をあやしていると考えると、そのギャップは余りにも大きい。同じヒロインを演じた吉永小百合は今回のヒロインと同じく早稲田の二文に入学した。吉永は有名人だったが故に学友は遠巻きにして近寄りがたい存在だったと聞いたことがあった。一方の広末は鳴り物入りでの入学の割には早々に頓挫していることは対照的なことだ。

 最近は、タレントと称して歌手なのか俳優なのかコメディアンなのか分からぬ人物がドラマにも出ている。彼らが同時にバラエティーに出て、小学生程度の漢字も読めなかったり、健康番組で血圧が高い、内臓障害をもっている、高脂血症だの、便秘がひどいなどという事を公然と見せ物にし、自らの不健康を隠そうとしない。家族が誰で子どもが何歳でペットは何を飼っている、などを知られている者も少なくない。そうした芸人さんがいくら真に迫ってシリアスなドラマで演じても、私事と分けて見ることができなくても仕方あるまい。

 タレントとは本来、「才能、技量」の意味があるはず。ただ、私事を知らしめるだけでなく、才能を見せてほしいものだ。最近は視聴率が上がりさえすればいいと思わせるように、芸能人などのプライベートの綻びをマスコミが報じている。知る権利があるとかなんとか言っているが、知られたくない権利はどうなのか。現在のように、個人の情報が知られすぎている中では、嘗てのような、夢を見させてくれた「スター」は生まれまい。山口百恵がいまだ絶大な人気を保っているのは、その後の様子が知られていないからなのではないか。吉永小百合も然りである。

 世の中、知ればいいってものではない。知らない方がいいこともあるし、その方が好奇心をかき立てられることもあるのだ。未知なことがなければ夢など持てないものだ。

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