日々の抄

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  幼い命を誰が守るのか

2006年04月03日(月)

 「殺したかったから投げた」。この聞くも恐ろしい理由が川崎市多摩区のマンションの15階から小学生を投げ落とした犯行の動機だという。同マンションで言葉巧みに清掃作業員の女性を呼び寄せ、同じ階で突き飛ばし女性への殺人未遂と建造物侵入の疑いで逮捕されたことが、小学生殺害の発覚のきっかけになった。自分が写ったビデオ映像が新聞に公開されたのを見て観念し出頭した。過去の事件でもビデオ映像が犯人特定につながったケースは多い。平成15年の長崎市の男児誘拐殺人事件、今年1月の横須賀市の米兵による強盗殺人事件などで犯人が映し出され逮捕に結びついている。防犯ビデオは建物から街全体をカバーし始めている。平成14年、全国で初めて街を監視するため50台を設置した東京・歌舞伎町では4年間で刑法犯が2割減少したという。全国の繁華街、学校周辺でも設置が進み、全国の小学校の約12%が導入しているという。防犯ビデオによって、起こった犯罪の解決につながっても、犯罪抑止に明らかな効果が現れるまで社会的に認知されるに至ってないようだ。誰かがカメラで監視しなければ犯罪が抑止できないような社会とは情けない話だがそれが現実なのだろう。
 3人の子どもの親であるという容疑者は、周囲の人にもあいさつを欠かさず、「腰の低い人だった。仕事にも積極的に取り組んでいた様子だった。」という。凶悪な犯行に至った心の暗闇は明らかにしていかなければなるまい。リストラされたことが一因との報道があるが(実は自発的退社との報道もある)、日本中にリストラで苦しみ悩んでいる人は多数いる。リストラが理由であったり、犯行の引き金になったことは理由にならない。

 ここ数年、幼児のいわれのない殺害が頻発している。1997年、神戸の14歳少年「酒鬼薔薇聖斗」による連続猟奇児童殺傷が世間を震撼させたことは記憶に新しい。01年6月大阪教育大付属池田小の授業中に発生した7人の児童殺害、03年7月12歳少年が長崎市の幼稚園児を全裸にし高さ約20メートルの駐車場ビルの屋上から突き落として殺害、04年3月高崎市小1女児殺害、04年6月長崎・佐世保の小6同級生女児殺害、04年9月小山市2幼児を思川に投げ落とし溺死殺害、05年12月今市市(現・日光市)小学1年女児殺害(未解決)、05年11月ペルー人による広島市小1女児殺害などあまりにも多すぎる。
 それぞれの事件の原因は異なるが、他人の命を奪うという、人として全てに先んじて避けなければならない行為に至った「心の闇」があることは間違いない。人は殺されるために生まれてきたのではない。周囲は事件が起こることを事前に察知することはできなかったのか。識者によると、幼児期に受けた虐待、精神的不安定など種々の要因で命の大切さを健全に育まれることが欠如している結果だという。また環境が引き金になっている場合もあり、犯行が行われる直前に必ず信号を発しているに違いない。例えば、動物への虐待、幼児へ異常な興味を示す、奇行などである。

今回の事件のように、「まさかあの人が」、「勉強はできるし、いい子なのに」という場合も少なからずある。誰しも相手によって、場面が異なっても同じ行動・態度でいるわけではない。学校では、勉強ができ、おとなしくて先生にとって手のかからない子どもは正常でいい子と思われがちである。子どもの表面しか見ていない教員や親にはそれ以上は見えてこない。現代の子どもの評価はそうしたことが殆どだろう。大人も同様だが、子どもは特に「他人に認められたい」「好まれたい」という気持ちが強い。ものに強い光を当てると影が見えてくる。その影も濃淡をもっているはずである。影があまりに暗く、子どもが動いても残るような影は子どもが発している危険信号である。子どもの表面しか見ようとしない大人は子どもの表面の明るさと形だけで子どもの価値を決めている。

 一昔前の世の中では、ひとりの子どもを取り巻く複数の大人が、子どもにそれぞれの光を当て、子どもの明るさ、形とともにその影を見抜いていた。いろいろな目がそこにあった。そのことに学問は無関係である。知識でなく知恵があればできることだ。ひとりの子どもは自分を評価してくれる人物がひとりでもいれば安心できた。そうした複数の目が子どもの行動を評価もしたし制約もした。誰それの家の子どもに関わらず、「そんなことしちゃだめだよ」と声をかけた。少なくとも子どもには緊張する相手がいたはずである。子どもにとって人数の多少はあっても、ひとつの社会の一員であるという意識はあったし、その中で自分がどう過ごしていけばいいかを察知していた。勉強ができなくても、走るのが速かったり、メンコが上手だったり、口笛をうまく吹けたり、正直者だったり、他人の目がなくてもきちんと掃除をできたり・・・と、何かひとつは、誰かが認めてくれているという安心感の中で自信をもっていた。自分を認めてくれているひとがいるということは、子どもにとって自信や責任感につながるものだ。また、横のつながりとともに子どもの上下関係がしっかりあったし、喧嘩をすることがあっても体をぶつけ合って遊んだ。
  以前は小学生の間は毎日のように漫画を見たが、中学生になると殆ど読まなくなり、文字に接するようになったというように、年齢の進行とともに、子どもの行動に成長が伴っていたから、「あいつ、あの歳になってまだあんなことしている」などといわれることが恥ずかしかった。今回の犯行は善悪の判断がつき、社会経験をしてきた成人である。ここまでの「子ども」の言葉を「大人」と読み替えても同じことが言えるのではないか。
 恒産なきところと恒心なしである。現在の日本は景気が以前より恢復してきたといっても、滅私奉公などという言葉が死語になり、働く者がいつリストラされるかわからない不安に駆られながら生活している人が多い。真面目に働いてもそれが必ずしも報われる保証を与えられず、働き盛りで自ら命を絶つ人の数が減る様子はない。「差別は悪くないこと」と明言する政治家の勧める改革の中で、これほど人心ががかさついて将来への夢を語れない中でも、子供たちの命は大人の責任で守っていかなければならない。どれほど道徳教育を叫んで立派な授業をやっても、「それは成績につながらないんでしょ」と子どもが感じれば、少なくとも子どもの心を育てることにはつながりにくい。

 命を大切に思う子どもを育てるのにどうしたらいいのだろうか。子どもは残酷な面を持っている。蛙をたたきつけたり、昆虫の足を取ったりすることを抵抗なしにできる時期がある。だが、大人になって、それがどれほど残酷なことかを知ってからは、決してしない。何故そうなれるのか。それは命の大切さを知る場面から学習できているからだろう。

 今の子供たちには、命がそこにあることを知らせる機会を作ることが必要なようだ。鶏を食べるために、子供たちの目の前で鶏を絞めて皮を剥ぎ、食べられる状態にすることである。原型を保っている豚を、解体することは勇気がいるが、一度は経験させる必要があるのではないか。皮を剥いで内臓を取り出し・・・・という場面に遭遇することは、どれほど書物を読むより得るものは大きい。子供たちが「残酷だ、かわいそう」と思うなら半分は成功である。「人は他の生き物の犠牲があるから生きられる。命を貰っているからこそ、生きている意味やどうやって生きていくかを考えることが大事なのだ」と思ってくれればいいのだ。食肉用に加工された物しか知らない子どもは、豚、牛、羊から尊い命を貰っていることが分かるまい。命の連鎖を教えることも大事だ。かつて、バナナが工場で作られていると言っている子どもの会話を聞いたことがあったが、こうしたことは教えなければ分からないことだ。「それは残酷だから自分の子どもにはそうした場面を見せたくない」と思う親の過保護が子どもをダメにしていることに気づかねばなるまい。親は自分の子どもに対して人間として大事なことをしっかり教える義務を負っている。

 ある小学校で「命の教育」として牛をクラスで飼育するドキュメントを観たことがあった。自分たちが育てた牛が出荷される時期が近づいてきたときに、このまま後輩に後を委ねるか、すぐに出荷するかを討論させた。結局、すぐに出荷することになった。迎えの車を涙を流して走りながら追いかける場面には、感じるものがあった。その涙が大事なのだ。命の大切さは、教えることとともに感じさせることが大事なのだ。こうした「命を考える」ための授業は簡単にできないだろうが、方法を工夫して必ず受けさせなければならないだろう。

 幼児殺害などの犯罪を防ぐためには、どうしても地域の目や連携が不可欠だろう。路地に出て無駄話をする。ただそれだけで、誰が住んでいてどんな人か分かってくる。子どもに声をかける。地域にお互いが住んでいることを感じている連帯感があるだけで住み心地は随分違ってくるだろう。一方で残念なことに、殺人事件があっても決して長くない刑期の判決を耳にする。決まりがあるから自分の行動が制約される、ということは社会生活をする上で必須なことだろう。14歳未満だから大丈夫だとか、殺人でも死刑になることは殆どないなどと考える人がいれば、犯罪行動にブレーキをかけることにならないだろう。日本は殺人に関しては刑罰が軽すぎると思う。他人の命を絶ったなら自らの命で償うのは当然だと思うのだが。また犯罪者の人権ばかり叫ばれながら被害者、その家族の人権は果たして重んじられているのか。被害にあって一生心の傷を持ち続けている家族の気持ちが重んじられないのはおかしい。

 今のままでは子供たちの声が路地や広場から全く聞こえなくなるのは遠くないだろう。こんな淋しい社会になぜなったのか、誰がしたのか、どうしたらいいのかを考えることが大事なのではないか。「他人を殺めない」「恥を知る」「卑怯なことはしない」など、嘗ての日本人が守ってきた常識が通用しない社会になってきていることは確かなようだ。

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