日々の抄

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  禍福は糾える縄のごとし

2004年4月28日(水)  ジャカルタに住む若者への便り

 いつも使っているコンピューターVaioの蓋を開けたとたんバリバリという音と共に小さな部品がいくつか脱落して故障。修理に出しました。同じ日に携帯用のPhotoTransisterでできているランプが消えなくなり、これまた突然の故障でした。

 そんなとき、3年前の痛さを思い起こしました。家族が出かけて誰もいない夏の夕刻、全くの前ぶれなしに急な腹痛に襲われ、2時間ほど悶絶の後、あまりの痛みに失神寸前となり、やっとのことで病院に担ぎ込まれ10日近く入院しました。病名は亜腸閉塞。最悪の場合そのままお陀仏でした。同時に大動脈に血栓が見つかり、何回かの検査の結果、治療を受けることなく消滅していました。10日の入院なのに、入院保険が4日目からしか保証されないことをはじめて知りました。保険証書に細かい字で書いてある定款を読んでなかったための思い違いだけですが。

 君も以前同じような経験をした由。東南アジアで流行しているデング熱の可能性があったものの血液の検査結果は陰性。アメーバ赤痢を疑っても思い当たる節はなかったとか。医師が言う「ここは熱帯だから、原因不明の病気はたくさんあるよ」というのは不気味だね。

 想像できないことがある日突然起こると狼狽し、何で自分にだけ不幸が起こるのか等と思うが、それらには必ず本人に気づかぬ前兆があったはず。いつものままの自分でありたいと思うゆえに、その前兆に気づかない結果なのでしょう。

 そちらでの生活、以前に比べ生活に緊張感があり、やりがいもあると聞いていましたが、気分的に楽になるとポッカリと不安感に覆われている気分なのでしょう。その心情はいたく分かります。安心できる生活の中で不安が起こるのは不思議な感じですが、生活に追われる生活を送っていると、このままでいいのか等と考える余裕がないために感じないだけでしょう。たぶん将来に対する漠とした不安、現在と将来が果たして繋がっていくのだろうかという不安感なのでしょう。
  話は簡単だと思うのだが。恒産なきところ恒心なし。将来をきっちり考えるためには生活が保障されている方がよいことは確か。・・・・・それは考える余裕をもたらしてくれるから。

 現在の日本にいても心配は同じ。嘗てのように企業に献身すれば報われる時代ではなくなっている。今でなければできないことを懸命にやればいい。そして「今年1年間は必ずこれだけはやり遂げよう」という目標を決めて努力すればいい。あまり先のことばかり心配しないことだ。つまり、色々なことを一生懸命やらず一所懸命やればいいだけ。そうしたことの積み重ねがあれば、「結構やってきたな」と思えるはずです。具体的な将来の方向には、インドネシアと日本をつなぐ仕事、通訳、翻訳、文化交流、それまでの経験を活かせる出版関係、研修教育などいろいろ考えられると思います。

 聖書にも「きょうはきょうの心配をすればいい。あすはあすの心配がある」(マタイ)とあるそうです。1年間では先が長いと思ったら、半年、3か月またはもっと長く2、3年という、自分にとって考えやすい時間の区切りを考えることです。

 いま、日本は連日30度近い気温が続き、真夏のような4月としては記録的な気候です。春の次が順に夏にゆっくり変わるのでなく、ある日突然季節が変わると戸惑うものです。人生もなかなか、自分の思うようにならないもの。でも、「あの時のがんばりがあったから今がある」という生き方をしたいね。私もそうなれるよう老骨にむち打って努力しています。またのメールを待っています。

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