日々の抄

       目次    


  決められたから国を愛するのか

2006年04月30日(日)

教育基本法改正案が国会に提出された。私は教員採用試験で必ず出題されると聞いて必死に全文を暗唱したが、崇高な文言が並べられた文章を読んで、ある種の感動を覚えた。

 教育基本法は以下のような経緯がある。1946年5月、当時の田中耕太郎文部大臣の発議による。第90回帝国議会・衆議院帝国憲法改正委員会で、官僚・政党などからの教育の独立を保障するために「教育根本法」を作成したいという考えを明らかにし、1946年8月、日本教育家委員会を発展的に解消させる形で「教育刷新委員会」が設置された。教育基本法の作成を進めたのは、この「教育刷新委員会」と、文部省に設けられた「大臣官房審議室」で、具体的な作成作業は大臣官房審議室が担った。GHQとの協議・意見交換でも、戦前の国家主義的教育につながるような文言の削除を求められた程度で1947年3月に第92回帝国議会に提出され、無修正のまま成立した。つまりGHQの押しつけでこの法律が作られ、「日本の水の味がしない」という批判は当たらない。

 その後、1956年、鳩山一郎内閣が「臨時教育制度審議会設置法案」を国会に提出。当時の清瀬一郎文相は、教育基本法1条に忠誠や親孝行などが掲げられていないことを理由として、教育基本法の見直しを公言したが廃案。1960年(昭和35年)、荒木万寿夫文相が、教育基本法が占領軍の「押しつけ」として見直しの必要性を主張するも世論の理解を得らなかった。1984年(昭和59年)、「戦後政治の総決算」をめざした中曽根康弘首相も、臨時教育審議会(臨教審)を設置したとき、臨教審設置法に「教育基本法にのっとり」という文言を盛りこまざるをえなかった。中曽根首相も、当時の森善朗文相も、国会で「教育基本法を見直す考えはない」とした。臨教審の最終答申(1987年)でも、「教育基本法の精神を我が国の教育土壌にさらに深く根づかせ、21世紀に向けてこの精神を創造的に継承・発展させ、実践的に具体化していく必要がある」と述べられている。

 今回の教育基本法改定がなぜ行われなければならないのか、その趣旨や必然性が伝わってこない。伝えられているところでは、「行き過ぎた個人の権利尊重が、学級崩壊などの弊害を生んだ」、「日本の伝統を大事にする心が失われた」、「授業中に勝手な行動を取る生徒が多い」、「自分さえよければいいという考えが広がっている」などの自己中心的な態度を改めさせるのが狙いという。最近はジコチューな人間が増えていることは確かだろう。若者による、命の尊厳を損なうような事件が頻発している。そうしたことが、はたして法律を変えることで解消するのだろうか。これらの問題の根本は、心の荒廃にある。だが、それが戦後教育の責任だという短絡的な責任転嫁だけで済むのか。社会人としての基本的ルールが軽んじられていることが、行き過ぎた個人主義の助長の結果とは思えない。個人主義は利己主義とは違う。個人の人権の尊重の上に立って社会が成り立って行かなければならない。個人主義に問題があるのでなく利己主義に問題があるのだ。子供たちの問題行動が家庭の躾だけで解決しにくいところに今日的問題がある。他人に迷惑をかけてはいけない。自分の責任を全うせよと、小さいときから教え込まれてきた子どもが、学校という社会、子ども社会で真面目にやればやるほど「ダサイ、ウザイ」、「真面目ぶっている」と疎んじられているのはなぜか。心の病にかかり、登校拒否になりやすい子どもは社会的適応力に問題を抱える場合があるが、同時に真面目に生活しようとしている子どもが少なからずそうした中にいる。いい加減に生きている子どもはそうしたことにはなりにくい。子どもは親の背中を見て成長するが、グレた親の子どもが必ずグレるわけではない。真面目な親に育てられた子どもがすべて真面目に育つとは限らない。子どもは時代の空気を吸って育てられている。

 まっとうに子どもを育てるには、他人の財産、生命を尊ぶことを幼い頃から親が教えていかなければならない。それが親の義務である。そして社会がそれを支援していかなければならない。バレなければ悪事を重ねても構わないという、大人達の行動を反面教師と受け止められるような子どもになってほしいが、現実はそうではなさそうだ。政治家が何億もの金をうやむやにしたり、汗して労働することなく、自宅でコンピューターを操作して何億もの金を株で儲けることを知れば、かつてあった、家庭の貧しさから抜け出すために、真面目にその道で職を得るための修行をしなければならないと思ったり、学問をして安定した職を得ようと地道な努力をしようと思う気持ちは湧きにくい。

 社会を荒廃させている今日的問題を解決するために必要なことは、「お天道様に顔向けできないことはするな」、「額に汗水を流して地道に働け」、「自分に不都合なことを他人に責任転嫁するな」ではないか。こうしたことを社会が肯定していけば、自ずと安心して生活していけるのではないか。現在の日本人の多くは物欲に駆られ、本来持っているはずの「心の大切さ」を失いかけている。子供たちの荒んだ心を取り戻そうと思うなら、大人、それも特に社会の指導的立場にある人びとが子供たちに範を垂れることだ。ドイツでは社会的ルールに対して自分にも他人にも厳しいと聞く。それが国民性なら、もともと日本人にそうした心情は持っていたはずである。それが失われてきたひとつの原因は経済的豊かさかもしれない。衣食足りて礼節を失うである。

改正案で、第三条「生涯学習の理念」、第七条「大学」、第八条「私立学校」、第十条「家庭教育」、第十一条「幼児期の教育」が新たに加えられ現行の十条から十八条に変わっている。第七条(大学)では「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの教育および研究の成果を広く社会に提供することにより、その発展に寄与するものとすること。このためには、自主性、自律性その他の大学における教育および研究の特性は尊重されなければならないこと。」とある。現在の、大学を卒業して学歴が残っても学問がなかなかなされにくくなっていることを反映している結果なのか。「学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し」などと法律で決めなければならないのは情けないことだ。

一方、今回の改正で「愛国心」を盛り込むか否かの激論が戦わされている。改正案には公明党の反対などから「愛国心」の言葉は入れられてない。「愛」の文言は現行法、改正案ともに二カ所ある。現行法では、第1条(教育の目的)の「・・・・平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ・・・・」、第2条(教育の方針)の「・・・学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献する・・・」である。改正案では第二条(教育の目標)三の「・・・正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに・・・」、同五の「・・・伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」である。
愛国心について、自民、民主など超党派の国会議員でつくる「教育基本法改正促進委員会」(380人)など4団体が改正案に「愛国心」の育成を盛り込むことなどを求める決議を採択していることなどから、国会審議過程の推移を注視していかなければならない。
愛国心が評価の対象となっているという信じられないことが現在も行われているのは憂慮すべきことである。福岡県では02年から67の市立小学校で、六年生社会科の評価項目の一つとして「国を愛する心情」、「日本人としての自覚」を三段階で評価、通知表に記載、こうした評価を取り入れた公立小学校が全国十一府県の百七十二校に達している(朝日新聞調査)。評価項目の文中に国や日本を愛する心情を「持つ」「持とうとする」との言葉を入れた上で、「十分満足できる」、「おおむね満足できる」、「努力を要する」の三段階で評価している。「子どもたちの心まで評価することは不可能」との批判が出ているが、子どもたちは一点でも点数を上げたいために、文科省の方針に沿った答えを出すようになることも予想される。こうしたことが「心の管理社会」の始まりと思えてならない。

オリンピックで日本代表が活躍すれば「ニッポン頑張れ」と思うし、WBCで日本代表が優勝すれば、「日本人でよかった」との声が聞こえてくる。国を愛することは法律に書かれているからそうするのでなく、自然発生的に「日本はいい国だ。日本が好きだ」と思うことなのではないか。「愛国心」を教育基本法に書き込むことが、どうしても「国を愛しなさい。お国のために・・・」と聞こえてくる。その前ぶれと思われることが間近に迫っているからである。都内の公立学校の卒業式で、「君が代」の斉唱時に起立しなかったなどとして今年も都教委が教員33人を懲戒処分している。同様の処分が他県でも行われている。そうしたことを回避するために北海道美唄の小学校入学式で、国歌斉唱時の起立を促すため教職員用の椅子を用意しなかったことなど、異常な事態である。都教委による03年の「10・23通達」以来、「君が代神経症」が教職員に数多く見られると専門医が指摘している。また、本年3月13日都教委は、生徒の不起立が発生したことを理由に「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について」という通達を出し、生徒にも「君が代」の斉唱時の起立を求めている。国旗国歌法制定当時の「児童生徒の内心にまで立ち入って強制するものではない」という政府見解に反しているのではないか。

教育基本法に「愛国心」を盛り込みたいと考えている人達は、「日本人は愛国心がない」ことを前提にしているようだが、そんなことはない。日本という、こんなに自由で自然豊かな国も郷土も好きな人がほとんどだろう。ただ、強制されて国を愛せと言われるのが嫌いなことは確かだ。

-----------------------------------------------------------
「参考」

教育基本法
昭和22年3月31日 法律25号

『われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
(教育の目的)
第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)
第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
(教育の機会均等)
第3条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
(義務教育)
第4条 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
(男女共学)
第5条 男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
(学校教育)
第6条 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
(社会教育)
第7条 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
(政治教育)
第8条 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(宗教教育)
第9条 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
(教育行政)
第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
(補則)
第11条 この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。』
<前                            目次                            次>