日々の抄

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  劇場は閉幕するが

2006年06月18日(日)

 通常国会が閉会した。小泉劇場の閉幕でもある。この5年間に日本が大きく変わってきたといえるだろう。子どもが関わる事件・事故が多発し、経済的不安を抱える庶民が増えてきた。小泉氏のショートフレーズとして記憶にある中で見捨てることができないのが、「人生いろいろ」「靖国は心の問題」「政治と商売は別」「どこが戦闘地域で非戦闘地域など今の私に分かるはずがない」「30兆円枠のこの程度の約束を守らないことは大したことではない」などである。総じて言えば強弁の5年間といえるだろう。

 この5年間での特徴は、@米国追随外交への傾斜、A拝金主義 、B雇用格差の拡大などだろう。

 @は米軍再編に関わるグァム移転、沖縄米軍基地移転でのあまりにかけ離れた国民負担がある。日々の生活に不安を感じている国民の目から見れば、米軍移転のために3兆円の移転費を勝手に自分の財布から出しているかのように安易に結論を出してほしくない。こうしたことに対して国民に説明責任を果たしているとは思えない。米軍の司令部の一部が首都圏に移転してきて、そこから他国へ米国が進駐の命令が発されていくなら、日本は米軍の配下にあって、世界からは「日本は米国の一州だ」と思われても仕方あるまい。いままで平和憲法があったからこそ、武力を行使する形での海外派兵をせずにすんだが、憲法改正によって、それもできなくなってしまえば、正に日米は武力も共有する同盟国になっていくだろう。当然、諸般の負担が国民にかかってくることは見えている。米国の原子力空母の母港化が案じられている今日だが、いったいいつから非核三原則が消滅したのか、不思議でならない。

 Aについては、市場原理主義により、額に汗することなく机上でコンピューターに向かって指先を動かすだけで何千万、何億円の金を得ることができる不自然さは、従来の日本人が持っていた勤勉さを否定していると言っていいかもしれない。一部の情報と財力のある者だけがいい思いをすることができる不条理さを感じていた庶民にとって、ライブドア、村上ファンドが粉飾決済、インサーダー取引などの不正をしていたことが発覚し、「やっぱり、世の中そんなに甘くないよ」と溜飲を下げた人が少なからずいたはずだ。そうした虚業に、日銀総裁が関わっていたかもしれないとの報道に怒りを覚えないわけにいかない。「不徳の致すところ」と釈明して事を済まそうとする姿は、「法律違反してなければ何でもあり」という昨今見られた不愉快な現象の象徴だろう。

 Bについて。この5年間で正規社員が440万人減少し、非正規社員が660万人増加したという。同時に現政権になってからの国の負債が170兆円増えたという。いつ解雇されるか分からない状態で、嘗てのような企業への忠誠心など生まれるはずがない。「この仕事に命をかける」と考えてひたすら努力してきた人びとがこの国を支えてきたのではない。同一労働同一賃金が叫ばれていながら未だ実現していない。仕事に就かない若者が問題視されているが、仕事を求めても就けない若者に対して、企業はもっと彼らを積極的に雇用することはできないのか。団塊世代のリタイアがとりざたされているが、それだけでなく、今まで積み重ねられてきた技術、知恵、多くの知的資産が継承されなくなることは見えている。ある世代が欠けている企業は、それまでの企業のノウハウを継承できなくなるという致命的な損失を覚悟しなければなるまい。これは一企業だけでなく、国全体で考えても同様である。

 「郵政改革」「道路公団改革」が現政権の業績なのだそうだが、それらが国民生活にとって果たしてプラスになっているのだろうか。長く叫ばれてきた「社会保険庁改革」はどこにいったのか。雇用保険料が不正使用されてきて誰ひとりとして責任をとろうとしないのはどういうことなのか。何故政治の力で追求できないのか。あれだけ議論されてきたという「教育基本法改革」「共謀罪創設法案」が継続審議になっているが、会期延長をしてまで急ぐことはないと考えてのことなのか。そうしたことに無関心とさえ見える最後は尻をまくってあっけなく頓挫している感を否めない。
今の日本では、「小さな政府」をめざした市場主義的改革だけが正義であるかのように伝えられているが、四半世紀も前にサッチャー、レーガン政権が新自由主義的改革を掲げてきたが、そうした国々ではすでに脱「小さな政府」の時代を迎えているという。現状の改革の継続は、格差の拡大、異様な犯罪の増加、教育、福祉の荒廃を招く可能性を大いに含んでいるといえるのではないか。

 次期総裁候補について、本人が立候補を表明していないにも関わらず、マスコミは安倍、福田氏の二名が有力候補であり、安倍氏有利と伝えている。国を左右するであろう与党の総裁候補の一挙手一投足をマスコミがなぜ詳細に垂れ流しする必要があるのか、大いに疑問である。むしろ不愉快である。人気投票をしているのではない。マスコミは、立候補者とおぼしき人びとが今後の日本をどのような考えをもち、政策を掲げているかを伝えるべきである。いちいち誰それが何パーセントの支持を受けているなどという、選挙の予想の真似事はすべきではない。誰それが若くて格好いいから次期総理になってほしい、などと伝えられることがあるが、愚かしいことである。今のこの国の精神的にも経済的にも国際的にも瀕している問題を語るべきである。町内会の会長を決めるのとはわけが違うことに気づくべきである。一連のマスコミ報道には、国民をある方向へ誘導するかのような内容をもっていることがある。その意図を感じることが多い。政権に追随するような報道を続けているマスコミは、かつて戦争へ荷担してきたことへの懺悔がなされなかったことを想い出すべきである。

 「象徴的貧困」という言葉があるそうだ。この言葉は(仏・哲学者Bernard Stieglerによる )「過剰な情報やイメージを消化しきれない人間が、貧しい判断力や想像力しか手にできなくなった状態を指す」という。連日の情報過多によってメディアがもてはやす人物や行為に対して、人々の関心や話題がひとつの方向に向かっていく現象がある。ある人物に対して、時に熱し、時に強烈なバッシングをする。そうしたことはひとりではできないし、しない。「みんなが言っているから、しているから」がその根底にある。これは子どものいじめに通じるものがある。自己主張の強い人が多くなった昨今だが、他人に惑わされない発言ができるようになっていれば、政治家のワンフレーズを信じて「何かいい事が起こりそう」などと考えなくなるだろう。マスコミに特定の政治家が頻繁に出現し、国民に世の中の流れが既に決まっているかのような発言をし続けている場面を目にすることがあるが、いかがなものか。今の日本は「象徴的貧困」の状態が起こっている思えてならない。溢れすぎている情報に対する批判力こそ自らを救う道に導いてくれるに違いない。

 日本の将来はマスコミが決めるのではない。国の進むべき道は国民が決めることである。小学校の運動会で優劣を明らかにしたくないためか、順位を付けなくなっているという一方で、「差別があることは悪くない」と政治家はいう。これからの日本が住みやすい国になるか否かは、国民一人ひとりが、「人間にとって何が大事なのか」を積極的に考えていき、それを実現するために何をなすべきかの議論を進めることが急務だろうと思う。人の命が軽んじられている今の日本が住みやすい国だとは思えない。
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