日々の抄

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  教育は国家百年の計

2006年07月01日(土)

 教員の質向上を目的とした教員免許更新制を中教審の教員養成部会が6月26日、「現職教員も含めて導入することが必要」との答申案をまとめ、7月中の中教審総会で了承される見通しとなり、現職も含めた更新制の導入が固まったという。同部会は、導入の理由について新たに「社会構造の急激な変化や、学校や教員に対する期待などに対応するため」と明記。不適格教員の排除が目的ではなく、その時々で求められる教員として必要な資質や能力を「刷新」するため、現職へも適用すべきだとしている。

 学校現場で子どもたちと正面から向かい合い、日夜悩みつつも懸命な取り組みをしている教員が殆どである。一部の反社会的行為に走った教員がいるから、一部の指導力不足の教員がいるからといって投網をかけるように「教員免許更新制」が必要だとする論法には疑問がある。教育現場では、注意欠陥・多動性障害、学習障害、怠業、喫煙、飲酒、性犯罪行為、教師への暴力など問題が山積している。こうした行為すべてが教員の指導力不足だとして解決できる問題ではない。保護者が子どもに基本的生活習慣を身につけさせることへの放棄から、問題行動の原因を学校に求めて解決できると思ったら間違いである。小学校で1時間目から朝飯を摂らずに登校して居眠りをはじめる子どもが複数いたり、いきない教室を飛び出す子どもがいることを、担任の教員としての資質、能力不足といい切れるのか。

 専門職として、子どもたちに学習意欲を喚起し、集団生活の方法、人間としての生き方を教えることは教員の責務と思うが、その前提となる基本的な「学ぶ姿勢」は家庭で指導すべき事だろう。なんでもかでも「学校が悪いと」とする最近の風潮は家庭、社会、児童本人が負担すべき責任の回避の側面を多く持っていると言わなければなるまい。

 一方で、「あの先生は問題だ」と言われても仕方ない教員がいることは確かだ。責任回避、協調性の欠如からプロ教師としていかがなものかと思わせる人物がいることも確かだろう。だが、真面目に取り組んでいる多くの教員が、そうした人物と一緒に批判されては堪らない。はたして「教員として必要な資質や能力」とは何か。一番の基本は社会人、職業人として通用する「常識」を持つことだ。大学を卒業して間もなくして「先生」と呼ばれて、偉くなったような錯覚に陥る教員がいてもおかしくない。子どもたちから「あの先生は俺たちのことを考えてくれている」と思われ、保護者からも信頼されてはじめて「先生」と呼ばれるに相応しいと言えるだろう。

 「社会構造の急激な変化や、学校や教員に対する期待などに対応するため」に「教員免許更新制」が導入されるとのことだが、社会構造が、なぜどのように急激に変化したのか、学校や教員に、誰が何を期待するのかを明らかにすることが導入の大前提ではないか。「不適格教員の排除が目的ではなく、その時々で求められる教員として必要な資質や能力を刷新するため」というが、複数の人が客観的に見て不適格教員と思われる人物が現場に立てなくなるのは致し方ないことだろうし、然るべき対応を迫られて当然で、「教員免許更新制」を待つまでもない。だが、誰がどのように「不適格」と決めるかが大きな問題である。「時々に求められる教員の資質」は、何も今はじめて問題になることではなく、過去から未来に向けて常に求められることだが、東京都がとっている、「会議で採決しない」方式や「上意下達」をよしとして物言わぬ教員を「求められる資質の一部」と考えているなら大きな誤りである。「相手の立場になって柔軟に対応でき、物事を論理的に考え、自分の意見を堂々と言える人物になれ」と教員は子どもたちに言うことがあるが、自分たちはそうしたことを、子どもたちの前で言い切れるかどうか。
 授業をまともにできない教員がいると聞くが、信じられないことである。はじめからそうであるなら、なぜそうした人物が採用試験に合格したのか。なぜ採用されたのか然るべき立場の人達に聞いてみたいし、採用した側も責任が問われるだろう。現実にそうした人がいるなら、みっちりと勉強しなおして貰わなければならないが、「教員免許更新制」でこれがかなうのだろうか。「教員免許更新制」を実施するなら、その内容が大いに問われる。つまり、イスに座って、ただ講義を聴いていれば免許が更新される制度では、こうしたことの問題解決には全くならないだろう。教員の中に、学校行事準備、教材研究、各種の報告書類作成、保護者との面談、問題行動への対応などのために、連日帰宅が22時を過ぎることが日常的になっている人が少なからずいると聞く。更に部活動に真面目に取り組めば休日も返上し、慢性的な疲労を背負っていて体力的、精神的に余裕をもてない状況は少なくない。そうした中で、30時間程度の講習を果たすことは限度を超えることにならないか。「多少の負担増は仕方がない」という意見もあるようだが、現場を知らない人の言葉である。

 中教審教員養成部会教員免許制度ワーキンググループの11名の中で、教育現場を肌で感じている委員が何人いるのだろうか。小学校、中学校の校長が各1名いるが高校関係者がいないのは片手落ちである。教育現場の様子をマスコミが伝える内容程度の知識だけで、今までにない教育界が迎えようとしている方向づけを判断しているなら、もっと現場の声に耳を傾けてほしい。

 教科指導での資質向上についての次のような方法もある。つまり、画一的な研修でなく、各自の専門に関わる内容について、毎年ないし隔年毎に論文を果たしたらどうか。そのための大学、研究機関などへの研修は保証する。教員同士の研修の場合、新人の時代には刺激的で得るものが多々あるとしても、ある程度の経験を積めばそれまでである。大学、研究機関などへ研修を積み重ねることにより、学術的にも高レベルの論文も望めるだろうし、教育実践論文も論文集の形をとっていけば、現場での問題解決の糸口になるに違いない。ある経験年数がくると義務的に果たされる研修は、経験年数に応じた情報交換などで十分であり、大学、研究機関、一線で活躍している人達の講演などが望まれる。教員が意欲的に取り組めるようにし向けられた「論文」は、とかくマンネリ化しそうになることに刺激を与えるに違いない。

 現在以上の現場の負担を増やす「教員免許更新制」には反対であるが、どうしても実施するなら、密度の濃い講義が行われ、教員に刺激を与えるようなものになることを期待したい。分かり切ったことを何時間もかけて眠気を催すようなことだけはご免被りたい。また、現場で問題が生じた場合、どのように対応すればいいかを事細かに教職課程で学んでくるわけではない。いろいろな実践例を挙げて、どのような対応が適切であったかなどを知る機会があれば、得るものはあるかもしれない。この講義を行う講師の資質も問われるだろう。

 「教員免許更新制」によってますます画一的な、個性を感じさせない無難な教員集団ができないか案じられる。かつてのように、多少破天荒でも面白みと人間みを感じさせる教員に接したことは貴重な財産である。授業中の「脱線した話」が、授業の内容よりも印象的に残っているのは、教員が人としての一面を見せる場面だからである。画一的な教員は教科指導はきっちりやっても、生徒のその後に影響を与える印象を持たせることはできにくいだろう。

 私が教職に就いた時代には、職場の先輩教員から大いに学び、学ばされた。物理の教員をやるなら学校にある実験器具をすべてリストアップして何の実験ができるか、何を補充すればいいか点検するよう教わった。確かにそれは当然のことであり、転勤毎に実践してきた。また、授業の展開についての「ひとこと」のアドバイスはありがたかった。生徒を知らなければいい授業ができないとも教わった。迂闊に叱って二度と教室に戻れない生徒がいるかもしれないからである。教員がひとりの生徒について何時間も話し合う機会も多かった。ひとりの生徒を叱る教員がいる一方で、「あの先生はお前のことを心配しているんだぞ」と励ます教員もいて生徒との関わりが複線的だった。授業で分からないことを他校の先生に電話して教わったこともあったが、「自分は半人前」という意識がそうしたことを支えてきたのだと思う。生徒のみならず教員もいろいろなことを知ろうとする「学び力」が求められるところだが、現在はどうだろうか。教員は現場から学ぶべし。若年寄はいけません。

 「教員免許更新制」は『・・・・・・必要な資質や能力を「刷新」するため』とあるが、「刷新」とは「弊害を除いて事態を全く新たにすること」と辞書にある。「これだけ努力しているのに、何が弊害なのか」と怒りを抑えられない教員も多いだろう。いい教育をしたいと思ったら、家庭、社会、学校の負うべき範囲を国民的合意により明確にし、教員に精神的な余裕を持たせることだ。教員の時間的、精神的負担をますます増やし、財政に関する失策のしわ寄せを「小中の教員給与を2.8%カット」という形で背負わせていけば、「教員なんかなるもんじゃない」と考えて教員志望者が激減したら日本の教育はどうなるのか。

 教育は国家百年の計ですよ。

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