日々の抄

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  負け惜しみはやめなさい

2006年08月05日(土)

 8月2日に行われたボクシングWBAライトフライ級王座決定戦について連日報道されている。新聞、TVともにスポーツ欄だけでなく一般ニュースとして報じている。私もTV観戦したが、素人の見るところ亀田はよくて引き分け、負けて仕方ない試合だった印象をもった。判定結果について批判的な意見が報道機関やインターネットの掲示板に寄せられているという。その多くは「判定がおかしい」というものだという。判定に対する抗議が五万件も寄せられ、対戦相手の国であるベネゼラにインターネットなどで「ファン・ランダエタは勝っていた」と判定に対して異議を伝え、「彼に対して敬意を払う」内容のメールが1500件も寄せられているというから異例のことといえよう。

 判定をしたのは日本人ではない。日本は試合会場であるだけだ。ジャッジは金(韓国)、タロン(フランス)、パディー(パラグァイ)である。なのに、なぜこうした抗議がなされているのか。いくつかの要素が考えられる。WBA会長が、試合前から亀田選手の父親にベルトを用意していたことが不自然なことの始まりである。こんなことをするスポーツが他にあるのか。裏で何かが動いていると思わせる事である。また、ダウンを奪われ、その後もはっきりした勝負を決めていると思われるラウンドがなかったこと、さらに後半になって亀田が何回もクリンチをしていることなどから、多くの人が「判定はおかしい」と感じたのではないか。「はじから亀田の勝利ありきではなかったのか」「ボクシングなんてこんなものだ」との感想が聞かれても不思議ではない。

  判定結果に対して、日本人の元世界チャンピオンのひとりは「こうした判定はボクシングの衰退を招く」と警告している。
 
 試合後、亀田は父と抱き合って涙していたが、麗しい親子愛である。精一杯父に認められようとひたすら努力してきた19歳の青年の努力は評価しなければならないだろう。だが、一方で判定が出たとたんに「エぇー」というどよめきを彼はどのように聞いたのだろうか。「どんなもんじゃい」となどと言えない空気を読めなかったのか。翌日の記者会見で亀田は1ラウンドのダウンは「俺としてのサプライズじゃ」などと強弁しているのは聞くに堪えない。みっともない負け惜しみは言わないことだ。せめて「自分も頑張ったが、相手は強かった」と言えないのか。

 亀田に対する批判は何をおいてもスポーツ選手でありながら、相手に対して敬意を払ってないことである。「勝者の謙遜」などという言葉は今の彼からは到底望めない感じである。よき指導者であると言われている父は彼のスポーツ選手としての技は伝えても、人間としてスポーツ選手としての品格を養うことを教えているとは思えない。また、ただ強いから、面白く刺激的だからと、もてはやしてきたマスコミの報道の仕方に問題を感じないわけにいかない。試合前の会見で相手に対してパンを口にしながら挑発的な態度をとっていることに、どんなコメントを寄せてきたのか。あのような態度を見逃していれば、強ければ、面白ければいいと子供たちが感じたらどうだろうか。強ければいいという態度が、今の世情に通じるものを感じているのは私だけではないだろう。劇場型王者を生んだマスコミに反省すべき点はないのか。

 対戦相手のファン・ランダエタは「もちろん私が勝っている。リングの上で亀田は分かったと思うが、彼はただの子ども」と語っている。いつもは手前贔屓の日本人が相手選手を擁護するような、これほどの反応を見せたのは久しいことではないか。スポーツは自国民だろうがそうでなかろうが、「判定は公平であるべし」と思っている人が多いことを知って、「日本人も悪くないな」と思って久しぶりに嬉しい気持ちになった。
亀田は、判定に対する批判を自分のものにしたければ、ファン・ランダエタと再戦し、明らかな勝利を得ることだ。それで負ければそれまでのことだ。

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