日々の抄

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  子どもの気持ちになって考えたら

2006年10月07日(土)

 北海道滝川市内の小学六年生の女児が昨年9月9日の朝、教室に遺書を残し天井に設置されたスライド映写用スクリーンの梁にひもをかけ首をつっている状態で発見され病院に運ばれたが、約4カ月後の今年1月6日に死亡した。遺書は教壇の上に、学校とクラス、母親と同居の親族、友人3人にそれぞれあてられていた。計7通の遺書が書かれているということを見ると相当の覚悟があっての自殺であると思われる。その3カ月ほど前から、女子と同級生との間で、修学旅行の部屋割りなどをめぐり仲間はずれにされたとみられる例が相次いでいたことを学校側は昨年の段階で把握。滝川市教委に報告していたが、市教委はそれを一切、公表していなかったことが3日、明らかになった。

 自殺を図った3日後から、校長と教員一人が担任教諭と同級生28人全員に、最近の女子の変化について個別で聞き取り調査した結果、昨年6月下旬、修学旅行の部屋割りを決める際、自殺した女子だけ部屋が決まらず、担任や同級生のほかの女子も含め、3回にわたって話し合っていたことが分かった。同じころ、毎月行われている席替えでも、連続して女子の隣の席に決まった男子に対し、同級生から「気の毒だ」という声が上がったこともあったという。また、7月下旬には女子から担任教諭に「いつも仲の良かったグループとうまくいっていない」との相談があった。校長は「それぞれ担任教諭が仲に入り解決したと認識している。8月の修学旅行でも、一人でいるなど変わったところは見られなかった」と説明。

 だが、クラスあてへの手紙では「みんなに冷たくされているような気がしました。それは、とても悲しくて苦しくて、たえられませんでした。なので私は自殺を考えました。」と記述。学校にあてた手紙では、3年生で周囲に避けられるようになり、6年生で自殺を考えたと告白。家族への手紙では、自殺を決めたことへの謝罪がつづられていた。詳しい本人の文章が報道されているが、耐えかねている内容が綴られていて、読むのが辛らかった。
 遺族によると、首をつる4日前、自殺をほのめかす手紙を友人の1人に渡した。「秘密にしてね」と書かれており、友人は担任ら学校側に相談しなかった。さらに、遺族にいじめの存在を証言する同級生もいたという。母親は「学校側は事実をうやむやにしている。いじめを認めてほしい」と訴えていた。これに対して市教委指導室長は「(遺書にある)無視が即、陰湿ないじめに結びつくとは思わない。遺書の中身自体は学級でよくあること。原因は今も調査中だ」と話し、「慎重に扱ってきたためで、隠すつもりはなかった」などと釈明。いじめについては「原因とは特定できない」などと説明。「遺書に'いじめがあった'と書かれてない」からいじめはなかったととれる発言があった。当初、市教委は遺言を読みたくなかった、後になってから読んだとも伝えられている。

 ところが、文科相が3日の会見で、「子供が訴えていたことを公表せずに握りつぶすことはあってはならない」と述べ、遺書の公表を遅らせた滝川市教育委員会の姿勢を批判。いじめの有無については「いじめを受けたか、受けなかったかは子どもの受け止め方もあるし、客観的に見てどうかということもある」と判断を保留したうえで、「幼い子供の動揺を出来るだけ早く見抜いて、家庭あるいは学校現場がしっかりと対応してもらわないといけない。そのためにも、(遺書を)握りつぶすのはあってはならないことだ」と繰り返した。

 女児の自殺と遺書の内容が報道された後、市教委には全国から電話約850件、電子メール約1000通が,小学校には2日朝から、約50件の電話が寄せられた。多くは「いじめを認めないのはおかしい」「原因究明が遅い」「学校でいじめがあったことをなぜ認めないのか」などと批判する内容がほとんどだったという。
 その後、校長は「われわれはトラブルと受け止めているが、本人がいじめだと感じたのであれば、そうなるかもしれない。彼女の訴えを読み取れなかったことについては申し訳なかった」と謝罪。それまで「いじめの事実を確認できない」としてきた市教委は5日開いた教育委員会議で、「遺書の内容を踏まえ、いじめであると判断する」と認めた。自殺の原因はいじめであると認めたことについて、「事実の把握を優先させ、子どもの立場になり考えることに欠けたことを反省している」とした。市長や市教委幹部ら6人が5日、女児宅を訪れ、「いじめの把握や対応に不十分さがあった。子どもの苦しみ、家族の心情をないがしろにする事実があり、心からおわびします」と謝罪し、女児の遺影に頭を下げた。

 女児が自殺したことは事実である。その原因は伝えられている内容を考えると「いじめ」であったことは否めない。「いじめ」という言葉が「遺書」になかったから「いじめ」が原因でなかったと判断したり、1年も経過しているのに「(遺書にある)無視が即、陰湿ないじめに結びつくとは思わない。遺書の中身自体は学級でよくあること。原因は今も調査中だ」などとしていることに怒りを覚えざるを得ない。こどもが「いじめ」によって自殺したことをどうしても認めたくない、自分たちに責任を問われることを避けたい、ということが見え透いている。

 ひとは自ら死ぬために生まれてきてはいない。生命の大事さを伝え、互いに助け合い楽しい集団生活を過ごさせ、何が大事なのかを教えるのが学校であり、教員の責務ではないのか。市教委のとってきたことは、小役人の保身の哀れな姿が見え隠れしているように見えてならない。自分たちの身の安全を考える前に、自殺に追い込んだ原因究明を子どもの立場に立って行い、そうした状況にあったまわりの子どもたちをどのように指導していくべきかを考えるのが現場と教委の役目ではないのか。女児の自殺の後、まわりの子どもたちにどのような指導をしたのか知りたい。「遺書の内容を踏まえ、いじめであると判断する」と考えを改めた原因が、全国からの抗議のメールや電話なのか。抗議がなければ、そのまま押し通そうとしていたのなら、関係者の教育に携わる資格を疑う。子どもの立場になって状況を考えようとしていなかった人々が教委にいることが驚きである。もし、自分の子どもがそうした状況にあったら、同じ判断をしたのだろうか。教委は、教員の一段上に立って人事を握って管理することだけを考え、何事も事なかれで済ませようとしているなら思い違いも甚だしい。教育の100年後を考えようとしない者にその資格はない。

 「事実の把握を優先させ、子どもの立場になり考えることに欠けたことを反省している」としているが、教育関係者は子どもの立場に立つだけでなく、大人でなければ、教育関係者でなければできないことを考え、実践していかなければ十分ではない。身を賭しても、「子どもにとって何が大切か」を考える人物がいない限りこの国の未来は暗い。

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