日々の抄

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  教育に焦りは禁物

2006年11月05日(日)

 高校必修科目の履修漏れ問題が1日現在、全国で540校を数えているが、これからも増える可能性があるらしい。その後も訳の分からない、あってはならない「偽装」が発覚している。徳島市の私立高で、世界史Aや理科総合などの履修漏れがあったにもかかわらず、県に嘘の教育課程表や時間割り表を提出していた。校長は教員に対し、生徒たちに「履修漏れはない」と説明するよう指示していた。「土曜日も授業をしているので、単位数の多い授業の中で関連科目の項目を選び、必修科目の単位として認定している」と職員に伝え,それが虚偽であることを知らせず生徒へ説明させたという。そのことに教員が分からなかったことが不思議だが、私立校独自の問題があるのか。実態を知った生徒に学校への不信感を持たせたことは違いないだろう。後になって「発覚すれば受験前の大事な時期に学校が落ち着かず、勉強に支障をきたすと思った。生徒に嘘をついたことは反省している」と謝って済む問題ではない。浅はかとしか言いようがない。また、ある私立高校長は、生徒に対して教育制度、文科省が悪いと延々と熱弁を振るっている。最近の言葉でこういうのを逆ギレというらしいが、自己弁護も甚だしい。自分に理由があればルールなど破っていい、と現在の日本をおかしくしている発想と何ら変わらない。生徒が学校、教員を信じなくなったら教育が成り立たなくなることに、もっと早く気づかなければなるまい。「受験の成果を上げるため、私が職員にお願いして履修漏れが生じ生徒に迷惑をかけた」と明言している県下の高校長の謝罪の弁が明快で好感が持ててしまうのは不思議である。同じ地歴の科目の中で科目の運用に疑問を寄せられている学校もかなりあるらしい。高校での履修不足問題が波紋を広げる中、愛媛県の私立中学では「技術・家庭」の授業が、学習指導要領で標準とされる時間数より大幅に少ないことが判明しており、中学校まで詳細に履修不足を調査すると事はかなりの広がる可能性がありそうだ。

 文部科学省が2日、今回に限った「特例措置」とし、「学校教育法施行規則に定められている校長の裁量権を最大限に活用し、授業時間の削減など具体的な補習スケジュールについては、学校の内規を変更することで対処する。」として、各都道府県の教育委員会に通知した。内容は『補習授業の上限を70回(1回50分)に設定。70回以下の場合は、単位取得に必要な出席日数を「全授業の3分の2以上」などと定めた各学校の内規を使って、必要な補習時間は、「50回で対処することを妨げない」とした。必要な補習が70回を超える場合は、履修していない科目を70回の中で割り振ったうえで、70回を超える分は、リポート提出などで扱うこととした。この措置を行うには、各学校が内規を変更して対処する。』というものだった。100時間を超えて補いを要するような途方もない未履修科目を抱えた学校関係者と生徒は一安心だろうが、いくつかの疑問が残る。

(1) 必修科目は学習指導要領によって決められたはずである。崇高な理念の下、日本の次世代を担う若者に必要と思うから世界史、情報などを必修科目に設定したのではないか。一方でその学習指導要領をよりどころとして、国旗国歌が「強制」され、従わないことにより休職にまで追い込まれている職員がいることと矛盾はないのか。たしかに未履修科目が多く70時間を超えるようなら卒業式を遅らせても年度内に卒業条件を満たさない生徒が出てくるだろう。3分の2規定による判断は間違いではないと思うし、生徒には責任はない。だが、全国の高校生の1割程度でしかないというが、未履修科目を持った高校生が、正規の講義を受けられずに卒業を認められることに問題は残らないのか。

(2) 組織の管理者には管理責任があるはずである。受験の便宜を図った、生徒のためになるように考えたとしても、学習指導要領を外れたことを承知して未履修科目があったことの責任はどこにあるのか。誰が責任をとるのか。本来、カリキュラムを編成する権限と責任は学校長にある。今回の救済策は、学習指導要領の枠内での解決を優先したため、結果的に学校長の「権限を例外的に拡大」していることは忘れてはなるまい。文科相は2日の記者会見で、「私には人事権がない。各都道府県教委で重く受け止めて頂くとしか言えない」と前置きした上で、校長や教育委員会に対し、「規範意識がないことが原点にあることを忘れないで欲しい」と呼びかけている。責任問題の今後の推移に注目したい。仲間内の当たり障りのない問題処理を図るような結果なら、教育に対する信頼は更に低下するに違いない。

(3) 現在は現3年生に対する対応に精一杯だが、1,2年生の教育課程はどうするのか。今回の問題が発覚しなければそのまま必修科目を未履修のまま卒業させていたはずである。1,2年生も3年生と3ヵ年のカリキュラムにしていれば、大幅なカリキュラムの手直しが必要になるはずである。学校は嘘のないカリキュラムを組み、そうなっていることを、現在より一層巧妙な履修逃れが発生しないように教育委員会は確認すべきである。受験制度と教育課程との関係で困難さがあるなら、全国の校長会、教育委員会、現場は何が問題でどう解決すべきなのか世に訴えるべきである。それ以前にどのような人間を育てようとしているかを自問すべきは言うべくもないが。未履修のある学校は、年度が変わる前に現1,2年生のカリキュラムがどのように改訂されたかを明らかにすべきである。結果論的に判断すれば、現行の指導要領には無理があったのではないか。作る段階で現場からの意見をもっと聴取していればこのような事態は生じなかったのではないか。

(4) 既に未履修科目がありながら卒業した者に対し、履修を望む者に講義を受ける機会を与えることを考えないのか。受験シフトした教育を受けて進路を決め、未履修科目の受講などとんでもないと思っている卒業生がいても不思議ではないが、未履修科目を履修したいと望む者がいれば、彼らには受講する権利があるはずだ。関係者の見解を聞いてみたい。

 未履修科目がありながら卒業していたり、現3年生の中で必修科目をすべて履修しているから損をしたなどと思っている生徒がいたら思い違いである。確かに受験だけを考えると多少はハンディがあったとしても、受験に必要なものだけ履修していた者は、自分の可能性の一部を受験対策という名のもとに閉ざされてきていると考えればいいのではないか。大学の受験科目は学生を選別するための、専門に関係する最低限の科目である。理科で考えれば、医学を志すために物理、化学、生物の3科目は必須のはずだが、3科目を2次試験の受験科目にしている大学はほとんどない。工学部で学ぶために物理、化学は基礎科学として必須のはずだが、受験は一つの科目だけですむ場合が多い。教育学部の理科に進もうとしているのに、高校で履修していない科目があれば、その科目については中学生レベルの知識しか持ち合わせがないことに気づくべきである。文系の科目についても同様のことが言えよう。いずれも、大学が学生を沢山集めようとするための対応策の結果なのだろう。受験科目を減らしておきながら、「最近の学生は知らないことが多すぎる」などとボヤいている大学関係者は自業自得の結果である。いずれにせよ、まじめに生徒のことを考え全ての必修科目を履修して卒業できる高校生は、自分は幸いだったと考えるべきである。何年かの後にそう思える日が来るに違いない。かつて、全ての高校生が理科4科目の履修を必須にした時期があった。文系の卒業生の「そのときは大変だったが、今となってあのときの知識が役に立っている。やってきてよかった。文系に進んで大学でわざわざ理科などやる者はいない」との感想を忘れられない。必要なことだけ知ろうとするなら学校教育など不要である。

 教育基本法に関する国会論議も未履修問題に多くの時間が割かれているようだが、「国を愛する心」を法文化しても、いじめや未履修問題の根本的解決が図れるとは思えない。成績のよい学校に予算を沢山配分することにした東京足立区のような、金に結びつけて頑張らせようとするような「さもしい風土」がなくならない限り、バレなければ何をしてもいいという考えがなくならない限り、何でも命令して言うことをきかせようとする思い上がった強権的体質が変わらない限り、この国がいい方向に進むとは考えにくい。かつてあった、「律儀に生きろ。お天道様に恥ずかしくない人間になれ。ひとを裏切るな。正直者には必ずいいことがある。」というような考えがこの国を支えてきたのではないか。このような教えは偉い先生に教わったわけではない。学歴がなくても、市井に貧乏をしながらでも真面目に生活してきたオジサンやオバサンから教わったことも少なくない。どうしたらそうできるのか。そうしたことを国会で議論している姿を一度でいいから見たいものだ。そして、「ゆとり教育、週5日制」がどういう結果をもたらしたかを真剣に考えるべき時が来ているのではないか。タウンミーティングで、内閣府が関係者に模範発言例を送りつけ、教育基本法に賛成する旨の発言を要請するような稚拙かつ狡猾な方法を使ってでも教育基本法をなぜ成立させようとしているのか。教育に焦りは禁物。急いでも焦ってはいけない。

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