日々の抄

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  日本人の未来像を語れ

2006年11月20日(月)

 教育基本法が与党の単独採決によって衆院を通過した。
 いじめ、未履修問題、相次ぐ子どもの自殺など、すぐにでも対応しなければならない問題が山積している中、教育基本法を改訂すればこれらの問題が解決するとは到底思えない。首相は11月16日付の自らのメールマガジンで、「最近起こっている問題に対応していくために必要な理念や原則は、政府の改正案にすべて書き込んであると思っています。」と述べている。どこにそうしたことが書かれているのか聞いてみたい。衆院での論議は、教育基本法について、なぜ改訂が必要なのか、そもそもいかなる教育を目指し、日本の将来を担うどのような「日本人の未来像」を考えているかの論議が見られない。いじめ問題など目先の問題を解決することなく、新しい教育基本法だけを改訂しても、今この時も困り果てている子供たちに救いの手を差しのべることはできない。本質に関わる論議のなされないまま、これからの日本の教育の基本に関わる基本法を性急に改訂する必要を感じないし、すべきではない。国民の多くは「もっとゆっくり論議を深め、多くの人びとが納得できる」改訂を望んでおり、政府が急いでいるだけである。察するに、国会の会期と首相の政治的求心力保持のためではないのか。改訂が悲願だったというなら、なぜ多くの国民の理解を求めようとしないのか。なぜ現場の声に耳を傾けないのか。ある新聞の社説にあるように「改訂することで、組合からの影響をなくすことができる。戦後の教育をダメにしてきたのは組合だ」との論評は分かりやすいが、時代錯誤も甚だしい。

 以前にも何回かに分けて教育基本法について述べてきたのが、次の3つの点だけについて論じてみたい。
(1) 教育の目標『第二条 五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。』について。愛国心を持ちなさいと直裁の表現でなく、「・・・・・する態度を養う」という表現はいかにもおかしい。「態度を養うとは」、それらしいフリをすればいいとも読めるし、「・・・をもたせる」とした方がはっきりするのではないか。だが、国から「国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」などと言われなければ国を好きになれないような国は、望ましい国でも、美しい国でもない。国を愛する気持ちは自然発生的に、「日本はいい国だ。だから国も地域も社会も大事にしたい」と思える社会を構築することが先決ではないか。弱肉強食を勧め、ますます貧富の差が激しくなっている昨今のこの国を、「再挑戦できる国だから頑張ろう」などと誰が考えるのか。再挑戦するとは、そのような状況を作り出し、その存在を認めていることである。再挑戦などしなくても豊かに暮らせる社会がなぜできないのか。スポーツの国際試合で国歌を歌っていることが引き合いに出される。それは強制されず自然発生的に歌っているのであることを忘れてはいけない。

(2) 家庭教育について(第十条)。『父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。』について。
 家庭教育の必要性が明文化され、好ましいことだなどと言う論評を聞いたことがあるが、それはおかしい。基本法に書かれなければ家庭教育は重んじられないのか。確かに、親がわが子を虐待したり、親とあまり関わりをもてない家庭で育てられた子どもがいじめに関わっている、との見解がある。家庭教育に問題を抱えていることが表面化しているが、基本法に書かれれば親がしっかりするのか。子を愛情をもって育てられなかったり、虐待、最悪の場合殺害するようなことを避けるためには、家庭が、地域社会と深く関わらない限り解決できないだろう。事が起こると全て「学校が悪い」とすることなどできない。わが子を健全に育てられない親が何故増えているのかの論議がないのはおかしい。

(3) 教育行政『第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。』について。『この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり』が最も不可解かつ危険な文面であり、時間をかけて論じられなければならない点である。教育現場に「他の法律」が介入する可能性を許すことになる。たとえば、国旗・国歌について、国旗・国歌法が成立したとき、野中広務官房長官(当時)が「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と強調していたにも関わらず、その後教育現場で日の丸の掲揚・君が代斉唱の強制的な指導が強まっている。地裁の裁判結果といえど、「入学式や卒業式での国旗国歌の強制は思想良心の自由を定めた憲法に違反する」との判決が出ていながら、当時の首相は「教員は法令に基づく職務上の責務として児童生徒に対する指導を行っているもので、思想・良心の自由の侵害になるものではない」としているように、三権分立を無視するような、政治が都合のいいように判断する危険性が危惧される。

 教育基本法が論議されているさなか、こともあろうに、教育基本法をテーマにした政府主催のタウンミーティング(TM)で、主催者が発言項目、発言者をきめ、8月30日付の文書では質問内容を事前に渡し、「時代に対応すべく、教育の根本となる教育基本法は見直すべきだと思います」などと主催者に都合のよい発言を求めている。挙げ句の果てに「お願いされてというのは言わないでください」と書いてあったという。後ろめたさがあるから口止めを指示しているのだろう。これが偽装工作でなくてなんだろうか。また、驚いたことに発言者ひとりに5000円の謝礼を払い、5年間で約20億円支出し、これらが予算化されていたという。この恥知らずな「やらせ」に対して、官房長官の発言が外圧のためか曲折している。11月7日「現場の行き過ぎがあった。TMに対する信頼感を損ないかねないようなことが起きてしまい、大変遺憾だ」としていたが、15日には謝礼金について「議論の口火を切ってもらう役割を担ってもらった謝礼金であり、やらせ質問では全くないと聞いている。手を挙げている人の中から『この人』というのではなく、明確に会の流れの中でお願いをしている人に謝礼を払ってきた事実がある」としている。TMを活発にするためにはヤラセ質問も当然ということか。

 大分県教委は10日、政府の質問案に沿って発言したのは県教委の職員4人だったと発表。八戸市では県や市教委が集めた教員ら関係者が参加者の半数以上を占めており、教育関係者の自作自演という実態が浮かび上がってきている。明らかに国民から意見を聴したことにする偽装工作であり、国民を欺くものである。小泉内閣時代に開かれた計174回のTMの半数近くで、質問者を事前に決める「サクラ」が用意されていたことも内閣府の調査でわかっており、「民意を汲み取っている」などとはほど遠い茶番劇が行われていた。「再チャレンジ」のTMでも同様のヤラセがあったといい、ご立派としか言いようがない。政府が行おうとしている政治に自信があるならなぜこのような不正を行うのか。

 教育再生会議が設置されているが、教育基本法が議会を通過してからどのような議論が展開されるのか。再生会議の結果を待ってからでも遅くはあるまい。教育基本法はこれからの国の行く末を決めるといってもいいものである。徹底した本質に関わる議論のないところで、ましてや、ヤラセ偽装が公然と行われていることを政府・文部官僚は子ども達の前で何と釈明するのか。

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