日々の抄

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  現場の声を聞いたのか

2006年12月16日(土)

 改正教育基本法が成立した。国論を分けるようにして論議されてきたとはいえ、国の行く末に大きな影響を与えるであろう教育基本法が、教育関係者からの多くの反対論を抱えながら多数の力を借りて成立したことは残念でならない。国会の審議が十分尽くされ、衆院で100時間、参院で80時間も費やして論議を尽くしたというが、その多くはいじめ、未履修問題、児童・生徒の自殺などに割かれ、本質に関わる議論が十分になされてきたか甚だ疑問である。法の成立を急ぎすぎたことの謗りは免れないだろう。
 なぜ改正が必要なのか。何度考えても明らかな理由をくみ取ることはできない。「押しつけられてきた法を変える」ことがその理由なら、「教育」が政治利用されたことにならないか。現行法にどのような問題があり、改正することによって、何がどう解決することの方向付けできるのか、国民的議論がないままの成立は禍根を残すことになるだろう。改正反対の論点は「教育への国家権力の介入を許すのではないか」「愛国心の強制がなされないか」などであろうことはこの欄で何度か述べてきた。教育基本法が成立した現在、根本問題は3つある。

 第一は、「国民の声を聴いたのか」ということ。タウンミーティングに見るように「聴いたことにする」努力はしたのだろう。だが、世論を誘導するように過去18億円余の巨額の予算を使い、関係者に原稿を用意してまで都合のいい発言をさせてきた「やらせ」という世論誘導のための偽装行為をしてきたのはなぜか。小泉内閣時代に計174回開かれた政府主催のタウンミーティングの「やらせ」質問は11月13日の最終報告書によると、事前に質問内容まで指定して発言を依頼する「やらせ」質問15回に加え、一般参加者を装って発言を依頼していたケースが29回、国が自治体に「動員」を依頼したケースが全体の4割にあたる71回あったという。「やらせ」は関係する担当部署が単独で実行したとは到底考えられない。ましてや、偽装が発覚したことの始末を、現職の関係閣僚が給与の一部を返納すれば、関係した役人を訓告などの処分をしたから、それで一件落着となるような簡単な問題ではないはずだ。トカゲの尻尾切りに見えてならない。訓告には、文書、口頭があるが、口頭訓告なら「気を付けましょうね」でお仕舞いになってもおかしくない。これだけのことをやって、これで一件落着とは。18億円がどれだけの金額で、どれほど国民を欺いていたか分かってない。仲間内の処分はこんなものか。
 子ども達には「嘘をつくな。正直に生きろ」と教えていながら、教育の憲法ともいうべき教育基本法を成立させるための偽装が公然と行われていて、恥ずかしくないのか。国民をなめるのもいい加減してもらいたい。少なくともそうした人々に教育を語る資格はない。タウンミーティングの偽装は以前から行われていた。当時の関係閣僚に何の咎めもないのは納得できるものではない。為政者の傲慢が見える。偽装をするということは、それだけ自信がなかった証拠ではないか。「国民のことを忘れた」と内閣府事務次官が14日語っているが、発覚しなければ国民の為に仕事をしていなかったということか。

 東大の調査で全国の公立小中学校長の三分の二が改正案に反対した、国の管理、監視の色彩が濃い改正案に対する懸念に対してどのように答えたのか聞きたい。偽装民主主義を絵で描いた今回の行為は歴史に残る汚点である。

 第二は、「第二条 ・・・伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する・・・」とする所謂、新設された「愛国心」条項について、首相は「日本の伝統と文化を学ぶ姿勢や態度は評価対象にする」としているが、国を愛するという個人の信条、心の問題を評価の対象することが許されるのか。だいたいにおいて、国を愛せという前に「愛するに足る国なのか、誇りに思える国なのか」が先決問題である。「美しい国」を標榜し、再チャレンジが目玉の政策と聞いていた現政権だったはずだが、雇用促進の事業に、フリーター、ニートを定義できないなどという理由で対象にしてないという。同一労働同一賃金と言っておきながら、現実は遠く、総務省の発表によると、労働者に占めるパートなど非正規社員の割合が30数%と過去最高になっており、特に次代を担う15〜24歳まででは50%弱が非正規社員という。生活の基盤がしっかりし、気分的にも経済的にも安定しており、血税が無駄遣いされず、福祉、教育などに正当に支出され、老後も安心できる国であれば、法律で定めてくれなくても、「日本は安心して住める国だ。自分は日本が好きだ」ということになるのではないか。連日のように役人による湯水のような無駄遣いを聞かされ続けていて、国を好きになれなどと言う前に正すべきことを明らかにし、国民に示す努力を見たいものだ。スポーツの国際試合で国家を歌うのは強制されてのことではない。その素朴な思いを強制するのは間違っている。為政者がその素朴さを作り出す努力をしていれば、法文化しなくても「国を愛す」ことになることに気づがない愚かさがある。

 第三は、第十条で「・・・・・父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせる・・・・・・」とあるが、子の教育について親が第一義の責任があるのだ、などと言わなければならない現実の原因、子殺しが多発していることを取り巻く社会的環境についてどう論じているのか。たしかに子どもの規範意識が低下している現象が多く見られているが、大人も同様である。それは、子どもたちが家庭、社会に大切にされてこなかったつけがでているためなのではないか。子どもの望むものを与え、望むようにさせることが子どもを大切にするとは限らない。不自由にさせることが子どものためになることも知らない親、教員、社会に問題があるのではないか。世の中はほとんど自分の都合のいいようにならないと思うことができれば、多くの問題は発生してこないだろう。

 親が子に責任を持ちなさいと言われなければならないとは、何とも情けない話だが、こんな事を法律にしなければならない大人が多いことも確かである。ジコチュウの子の親の多くは子に負けないほどのジコチュウーであると聞く。子どもはその時代の空気を吸って育っていく。社会情勢、家庭環境などから醸し出される空気が快く香り高いものなら、この国を愛し、人の温かさを大切にする人間として成長して行くに違いない。

 次の国会で基本法に関係する学校教育法など関連法規の改正審議が始まるという。これらも含め教育現場がどのように変わっていくか。教育現場では今までに増して雑務に忙殺され、教員の余裕が失われている現実を為政者は知るべきである。事件は教育現場で起こっていることを忘れていないだろうか。

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