日々の抄

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  動物もたいへんなようだ

2006年12月27日(水)

 「苦悩のポーズやめた」と題した記事が新聞に掲載されていた。徳島動物園に住む、つがいのマレーシア熊の雌のレーコと雄のツヨシの夫婦(めおと)漫才のような仕草が昨夏から人気を博していたという。給餌のときに8歳も年上の雌に餌をとられ、ツヨシは両方の前足で頭を抱えて回転しながら悶絶していた。雌に餌をとられながらも、抵抗して餌を奪うこともなく悶絶するだけであった。何度もそうした滑稽な様子を見ていると身につまされてくるからおかしい。特に世の亭主族は家庭で職場で経験している同じような自らの姿と重なって見えるかもしれない。そうした様子が人気を呼び、前年より観客が4万人近く増えたという。10月になって23歳という高齢になった雌が伏せってから雄は雌の様子を窺っていたという。今月初め雌が死んでから、頭を抱えて悶絶することは全くなくなった。関係者と観客は、悶絶の姿が見られなくなって残念がっているから、複雑な気がする。他人の不幸は蜜の味ということなのか。確かに見せ物としては面白いだろうが、当の雄にとっては安心して餌を食べられる気軽さと、相棒がいなくなった寂しさが交錯しているに違いない。近々新しい相棒が住むようになると聞く。

 ことしは人間社会で不愉快な事件が多かったためか、動物関係の報道が多かったように思う。千葉市動物公園のレッサーパンダ「風太」の立ち上がった姿が可愛いとして、連日のように報道されていた。確かに立ち上がった姿にほのぼのするものを感じるが、長い時間あちこちの報道番組で取り上げているのを見ていると、「なんと平和な国か」と思わされる。風太の加熱する報道に対して、旭山動物園はホームページに、「解剖学的に立つことは当たり前。(飼育の)プロが短絡的に“受けること”を続けていていいのか」と疑問を投げ掛けるメッセージを掲載している。旭山動物園は職員の努力によって観客の視点を変えるという新しいスタイルの動物園を再建したことで知られるが、冬場はペンギンの行進を売り物にしている。運動不足を解消するためらしいが、”受けている”という点では風太と変わりなさそうだ。旭山動物園も風太もマスコミが勝手に報道している結果、世に知られることになっているのだからお互い様のように思えるのだが。

 徳島市の眉山(びざん)北側斜面のコンクリート枠で身動きがとれなくなっていた犬が11月22日正午ごろ、無事に救助された。17日に近隣住民からの通報を受けた消防・レスキュー隊が救出活動に当たり、高さ約70メートル地点から落下した犬を設置したネットによって無事捕獲。現場には住民ら多数の見物人が見守り、この模様をテレビ局が全国放送するなど、日本中が「がけっぷち犬救出劇」に沸いた。主役となった犬には、里親依頼が全国から約30件届いているという。この日午前9時から開始した救出活動には消防・レスキュー隊合わせて17人もが参加。現場では、テレビカメラ15台、報道陣、住民ら約200人が見守った。最初は助けを求め切ない鳴き声を上げていた犬だが、次第にぐったりした様子で、体力も限界に達していた。救出されてから、捨て犬が後をたたず、可愛さから飼い始めるも面倒になって捨て犬にする無責任な人間のエゴが見えすぎる。「がけっぷち犬」と同様の身であり安楽死されている犬が毎日のようにいると聞くから、救助された犬は運がよかっただけかもしれない。

 また、兵庫県西宮市宮西町の夙川公園で、松の木に登った白い猫が降りられなくなっていた。通報を受けた西宮消防署が12月4日朝から救出を試みたが、猫はさらに高い枝へと逃げるばかり。高さ約16メートルの枝で身動きが取れなくなったため、レスキュー隊員が6日午後6時半ごろ、自力で降りるのを期待して枝に網を張った。市消防局のレスキュー隊が4回にわたり「救助」を試みたが失敗。8日午前、木の上から無事救助されたと聞く。猫は高いところから落ちると身を回転させて安全に着地できると聞くが、最近の猫はそれができないのか。そういえば、「キャット空中3回転」というのがあった。

 稚内市抜海港に数百等のゴマアザラシが姿を見せ、連日観光客が押し寄せているという。外国からもその姿を見学にくるというから驚きである。観光でゴマアザラシの姿を見て「カワイイ!」と叫ぶだけなら簡単な話だが、地元の漁業関係者にとっては海産物が食い荒らされ死活問題だと聞くと、喜んでばかりいられない。港に大型の船舶が寄港しなくなったことや港の改修工事で砂地が増えてゴマアザラシが住みやすくなったことが大量に寄りつくことになったらしい。

 動物は人間と共生して人を癒していくれ、家族の一員となっている場合もあるが、人間の勝手なエゴで簡単に捨てられることも少なくない。ペットを飼うときに、命を預かっているという意識の希薄さがそうさせるのだろう。一方で人間は動物を食料にしている。牛、豚、鳥などは毎日のように屠殺されている。ペットの猫の頭をなでながら、牛肉を口にしている。矢の刺さったカモを見れば誰しも、「なんと残酷なことをするのか」と思うが一方ではフライドチキンをうまそうに口にする。おもしろ半分にボーガンをカモに向けている人間が、もし自分が矢を向けられている立場だったらと一瞬でも思ったらそんなことはできまい。
 人間は動植物ともに命をいただいて生きられるという思いを持たなければ奢りしか知らない、程度の低い動物にしかないだろう。小さな生き物といえど真剣に「生きるための時間」を過ごしている。最強の動物といわれるライオンですら食べるため以上の殺生はしない。直前まで動いていた牛や豚が人間のために命を渡してくれていると思うなら、贅を尽くし飽食に明け暮れた果てに、大量の食べ残しを廃棄していることは考えにくい。子ども達には一度でいいから目の前で生きた牛や豚を食肉にする過程を見せたい。そうすれば、「自分は人間に生まれてきてよかった」との思いを強くするだろう。自分が傷つけられ殺傷される立場だったらどうだろうと思う機会が少しでもあれば、いじめも少なくなるのではないか。残酷に見えるこうした「生きる教育」は今の世には特に必要と思う。
 一方、多くの大人は幼いときに、カエルやトンボを傷つけた経験があるはずだが、そのことを成人してから「とんでもないことをしてきた」と思うからこそ、命を愛おしむことにつながっているのではないか。自分も含め「どれ一つとして命を勝手に自由にしたり粗末にできない」との思いを強くすることができれば、この世はもう少し住みやすくなるのではないか。
 それらの根本は「感謝」と「謙遜」である。

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