日々の抄

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  子どもは実験台ではない

2007年01月20日(土)

 教育再生会議の第1次報告の最終案の骨格が18日、明らかになった。
その内容は、「七つの提言」として
(1) ゆとり教育を見直し、学力向上。習熟度別指導、学校選択制など「基礎学力強化プログラム」
(2) 学校再生。安心して学べる規律ある教室にする。出席停止制度を活用、警察と連携。反社会的行動を繰り返す子供に毅然たる指導。
(3) すべての子供に規範意識を教え、社会人としての基本を徹底。「道徳の時間」の確保と充実、高校で奉仕活動の必修化、大学の9月入学の普及促進。
(4) 魅力的で尊敬できる教員の育成。社会の多様な分野から積極的、大量に教員に採用、メリハリある給与体系で差をつけ、不適格教員は教壇に立たせない。
(5) 保護者や地域の信頼に真に応える学校。外部評価・監査システムの導入、副校長・主幹等の新設、民間人校長など管理職に外部の人材を登用。
(6) 教育委員会の在り方そのものを抜本的に問い直す。危機管理チーム設置、教職員の人事権は市町村にできるだけ移譲、教委の基準や指針を国で定めて公表し、第三者機関の外部評価制度を導入。
(7) 社会総がかりで子供の教育
を掲げている。
また、「4つの緊急対応」としては、(1)反社会的行動をとる子供に厳しい対応を取るための通知等の見直し (2)教員免許法の改正 (3)教育委員会改革のための法改正 (4)ゆとり教育見直し、学校の責任体制強化のための学校教育法改正、としている。

 そもそも、今進行している「教育再生会議」が日本のこれからの教育の方向を決めるかのような方法が妥当なのだろうか。たった17名の中に教育現場で今起こっている困難さを肌身で感じているメンバーが入ってなかったり、教育学の専門家はいないのは片手落ちである。毎朝のように沢山の遅刻者、異装、ピアス、化粧、授業中の居眠り、掃除さぼり、放課後問題行動などに対して、なんとか生徒、子どもを正常な状態に戻そうと日々苦渋の思いで経験し、ボロボロになりながら空しさすら感じても、頑張っている教育現場に対して、学校だけで問題を解決できるとは思えない。少なくとも、現状をなんとかまともな状態にしたいと思っている現場の思いが答申にどれだけ盛り込まれたのか。首相補佐官が会議に出席したために首相の意向に沿って第1次の最終案がうまくまとめられたとの報道があるが、そうであるなら、はじめから「教育再生会議」などとまどろっこしい方法をとらずに済んだのではないか。教育バウチャー、大学の9月入学などを含めはじめから結論ありき、だったように感じられてならない。

 一方、中央教育審議会(中教審)との関係はどうなのだろうか。
中央教育審議会は、昭和23年国家行政組織法に基づき、「三十人以内で組織。特別の事項を調査審議させるため必要があるときは、臨時委員を置くことができ、専門の事項を調査させるため必要があるときは、専門委員を置くことができ、委員は、学識経験のある者のうちから、文部科学大臣が任命する」として発足している。平成15年3月に改正されており、設置の経緯は「中央省庁等改革の一環として,従来の中央教育審議会を母体としつつ,生涯学習審議会,理科教育及び産業教育審議会,教育課程審議会,教育職員養成審議会,大学審議会,保健体育審議会の機能を整理・統合して設置。審議会の主な所掌事務は、(1) 文部科学大臣の諮問に応じて,教育の振興及び生涯学習の推進を中核とした豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成に関する重要事項,スポーツの振興に関する重要事項を調査審議し,文部科学大臣に意見を述べること。(2) 文部科学大臣の諮問に応じて生涯学習に係る機会の整備に関する重要事項を調査審議し,文部科学大臣又は関係行政機関の長に意見を述べること。(3) 法令の規定に基づき審議会の権限に属させられた事項を処理すること」とされている。
 つまり文科相に対して、「豊かな人間性を備えた創造的な人材の育成に関する重要事項」をも諮問するのであるから、教育再生会議と重なるところ大である。一方、教育再生会議は、2006年10月設置され、その趣旨は『21世紀の日本にふさわしい教育体制を構築し、教育の再生を図っていくため、教育の基本にさかのぼった改革を推進する必要がある。このため、内閣に「教育再生会議」を設置する』とされ、総理大臣の諮問機関である。教育再生会議の答申を重んずるなら中教審の立場はどうなるのか知りたいところである。教育再生会議のメンバーは中教審の上の立場にいると思い違いをしていないのか。それぞれのメンバーが先見性を持たず思いつき発言で議論がなされているなら国民が望むような結果を導くことはできないだろう。

 この国の教育行政はいったい何をやっているのだろうか。授業を減らせといって土曜日を休みにした結果、学力が下がったという。今度は土曜日や放課後に補習をやれといったり、はたまた、以前のように土曜日を授業日に復活させることも視野に入れ、授業時間を増やせとしている。それも現状の10%増というが、10%の根拠は何か。10%授業時間を増やすとどの程度まで学力が向上すると考えているのか。そもそも日本の子どもたちの学力をどの程度にしようと考えているのかの議論が見えない。ただ、現状より少しでもよくなるはずだから10%増やせばいいと考えているなら、パッチワークをしているだけである。授業時数を増やした結果、それが詰め込み教育につながっておちこぼれが増えるような弊害をもたらし、再び「ゆとり教育」に戻るというような道をたどる愚は踏んではならない。補習が必要であるような無理な「ゆとり教育」を受けた子どもにとって、高校までの時間はたった一度しかないことに心を留めるべきである。
 「ゆとり教育」がどれほど子どもと教育現場にゆとりを与えたのか、提案した担当者に聞きたい。それが誤っているなら、何がどのように不都合だったのか明らかにすべきである。子どもは「教育」の実験台ではない。新しい教育を進めようとするなら、少なくとも「ゆとり教育」についての評価が「組織」(行政、教育現場など)としてなされ、何がどのように問題だったのか明らかにすべきであり、反省すべき点があるなら国民に対して公にすべきである。問題点と責任の所在を明らかにしない限り同じ事を繰り返し、前に進む力になり得ない。

 教育再生会議でいろいろな議論があったようだが、なぜ非公開なのか。公開されることを望む。これからの日本の教育の行く末に大きく関わりそうな議論が密室で行われなければならないのは不可思議であり、公開されると誰かが困るということなのか。一方の中教審がすべて傍聴できることと対照的である。第1次報告の最終案が出されるまでの過程で、会議の結果が反映されてないという委員からの発言を耳にしている。せっかくの議論に行政から横槍が入ったり、政治的圧力によって実行できないなら、「絵に描いた餅」でしかない。そうなれば「努力はした」だけという「美しい話」でお終いである。

 私は、「ゆとり教育」が行われる前から、土曜日を授業日にしていた以前の授業形態が最も望ましいと思っている。土曜日の午後のゆったりした心持ち、金曜の夜から週末がくるのを待つ、あの快さこそ「ゆとりの教育」だったと感じている。大学受験制度も、いろいろいじらず、かつてあった、1期、2期制が一番いい制度だと思っている。教育は制度をいじればいいというものではない。いじり壊したものを復元させるには大変な時間と努力が必要である。
教育現場に民間会社にあるような競争原理を導入したり、民間人の登用、教育バウチャーの導入などが与える影響は多大である。教育を営利を目的とする民間会社と同一視しようと思っているなら大きな誤りであり、無節操と言わなければならない。新採用の2割もを社会人と外国人にするなどと考えているらしいが、それらの人が教育学、教育心理を含めた教育の専門教育を受けることなく、教員免許を持たずとも教壇に立てるということなのか。民間と同じ事をすれば何かいいことが起こると真剣に考えているなら、いっそのこと日本は公立教育をやめてすべて私立学校だけにしたらどうなのか。
 能力によって給料を差別化するというが、これが、「目に見える」ことしかしない教員を育てることにつながることは間違いない。手のかかる子どもの担任になりたがらないだろうし、子どもと交流するため長い時間をかけて話を続けるような、数値につながらないことは敬遠されるだろう。教員の能力の有無を的確に評価できる人物がはたしてどれだけいるか疑問である。いままでどおりの評価の方法をとれば、「ゴマすり」教員が続出することは十分予想できる。また、憲法で守られている教員の思想、信条を教員評価の対象としてならないことは言うまでもない。指導力不足など不適格教員が問題化しているが、そのような教員を採用しないことを先に考えるべきである。免許剥奪は教員だけでなく、不適格医師、不適格議員、不適格役人も対象にしてほしいものである。

 すぐに結果が現れない。しかし、手のかかる子どもも、いつかは成長するだろうと信じて日々努力していく。そうした時間のかかる作業を続けていくことが教育ではないか。目の前に起こっていることだけで教員を評価するなら、この国の教育はいい方向に向かうことはできないだろう。

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