日々の抄

       目次    


  大切なのは他人を差別しない気持ち

2007年02月05日(月)

   2月1日、日本魚類学会が、「メクラ、オシ、バカ、テナシ、アシナシ、セムシ、イザリ、セッパリ、ミツクチ」の9つの差別的語を含む魚類の標準和名について議論重ねた結果、11綱2目・亜目5科・亜科11属32種を含む51タクサ(分類単位でtaxaはタクソンtaxonの複数形)の標準和名を改名すべきであるとの結論に達した。その理由は「これらの語を含む差別的和名は、たとえ命名時に差別的な意図がなかったとしても、和名の利用者に対し、精神的に傷つけたり不快感をもたらすことがあります。また、一部の差別的和名は、博物館や水族館などの公共機関においてしばしば別名への言い換えがなされているだけでなく、言い換えの仕方に統一性が無く、混乱した状況にあります。これらのことは標準和名としての倫理性、安定性および独自性の面から好ましくないと考えられます。」というものである。
  その例として
『オキナメクラ → オキナホソヌタウナギ(ヌタウナギ属よりも体が細い)、オシザメ → チヒロザメ(深い海を表すチヒロ=千尋)、セムシウナギ科 → ヤバネウナギ科(ヤバネウナギ1種のみ)、バカジャコ → リュウキュウキビナゴ(日本では沖縄県のみに分布する)、テナシハダカ → ヒレナシトンガリハダカ(胸びれがない)、セムシイタチウオ → セダカイタチウオ(他属に比較して体高が高い)、セムシクロアンコウ → クロアンコウ(日本産本属魚類が本種のみ)
ロケットイザリウオ → ロケットカエルアンコウ、ムチイザリウオ → ムチカエルアンコウ(形態がカエルを連想させ,また英名がfrogfish)
セッパリホウボウ → ツマリホウボウ(近縁種に比較して前後に短縮した体形)、セッパリカジカ →ミナミコブシカジカ(南方に分布)
ミツクチゲンゲ → ウサゲンゲ(ウサは兎。顔つきの印象)
アシナシゲンゲ → ヤワラゲンゲ(体が寒天質で柔軟)』などがある。

  なぜ差別用語なのか。
  『「いざり」は「いざる=尻を地につけたまま進むこと、また、躄(いざ)る人」とされ、足の不自由な人に対する差別的語と広く認識されている。「バカ」は個人の能力を否定する言葉である。受け止め方に個人差があることも事実だが、判断が人により大きく分かれるような語についてどこまでを改称の範囲とすべきかは難しい問題で、線引きは恣意的にならざるをえない。』などの注釈が加えられていたが、その他も身体的ハンディを表す言葉であり、不適切な名称と考えられる。
  だが、『なぜ「チビ、ブタ、ハゲ」は該当しないか。』に対して『これらは「バカ」よりも文脈により意味合いが異なる度合いが大きい。語源が形態的特徴に基づくものであり、語源そのものに差別的意味合いはない。』とある。しかし、気になる人にとって言われたくない言葉であろう。「ブス」も差別用語だろうが、魚にそうした名がないだけか。

  一方で、魚以外に目を向けると『馬鹿芋、馬鹿貝、馬鹿鳥(アホウドリの別称)、馬鹿海苔(寒をすぎ、二〜三月ごろに採る海苔)、馬鹿鶲(ジョウビタキの俗称)、馬鹿蝋燭(松脂蝋燭の別称)』、『唖蝉(鳴かない蝉)』、『盲蜘蛛(ザトウムシの別称)、盲縞(綿糸で織った木綿平織物。紺無地に染めた綿布)、盲判(文書の内容を吟味せずに承認の判を捺すこと)、盲蛇(熱帯・亜熱帯に広く分布し頭と尾の区別がはっきりしない)、盲窓(形だけで、光を通さない装飾的な窓)』、『足無し井守(アシナシイモリ目の両生類の総称)、足無し蜥蜴(アシナシトカゲ科の爬虫類の総称)』、『躄機・居座機(脚のない古型の布織機)』などがある。これらも改名の必要があるのではないか。「セッパリ」ははじめて聞く言葉だった。セッパリマス(背張鱒)という名称もあるが「くる病患者に対する蔑称」と判定できるそうである。
  また、日常用語では、和製英語である「ブラインドタッチ」という言葉がある。ブラインド(blind = 盲目)という表現が語源なら差別用語ではないか。また、「未亡人」は古くは後家と称したが、この語は夫に死別した女性をさし、やもめ=寡婦という。妻と死別した夫は「鰥」「鰥夫」と書き、「やもお」という。「未亡人」は本来自称の語であり、夫が死んでも云々と読むと、「産む機械」と同じくらい不愉快な言葉であり、避けるべき言葉だろう。
  「目眩ましを受けた」という言葉を、「めくら(=盲目)まし」という誤解もあると聞く。左利きを「サウスポー」「ぎっちょ」と呼び侮蔑的なニュアンスがあると考える向きもあるが、左利きに器用な人が多いこともあり差別的とは思えないが、野球が語源のこの語を「レフティー」と呼ぼうという運動があるという。「釣りキチ」「碁キチ」などの「〜キチ」の「キチ」の語源を考えると不適切な語と言えるのではないか。

 差別用語は使うべきでないが、使わないこと以上に大切なことは他人を差別しない気持ちである。少々経済的、社会的に有利な立場にいるからといって、他人を見下す了見の狭さは醜態である。自ら望まずに健康を害したり、身体的にハンディを持っている人を差別する権利は誰も持ち合わせていないはずである。いつ自分がそうした立場に立たされるか分からないし、自分が言われる立場だったらどう思うかという、「相手の立場に立った気持ち」が社会生活をする上で大いなる潤いになることは言うまでもない。たった一言によってどれほど悲しむか、励まされるか、喜ぶか。言葉には話す人の心が込められていなければなるまい。
 ある公共放送での対談中に「馬鹿でもチョンでも云々」とゲストが語り出したとき、アナウンサーが慌てて「ただいま不適切な発言がありましたことをお詫びします」と言ったが、当の本人は何が不適切なのか分からず、きょとんとしていた。知らないことで、その人の人格をも疑われることがある。

<前                            目次                            次>