信念・信条の直接的抑圧はないか |
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2007年03月02日(金) 日野市立小学校の1999年の入学式で「君が代」のピアノ伴奏をしなかったとして戒告処分を受けた女性音楽教諭が、都教委を相手に処分取り消しを求めた訴訟の上告審判決で、最高裁第三小法廷は「伴奏を命じた校長の職務命令は、思想・良心の自由を保障する憲法19条に反しない」との初判断を示し、教諭の上告を棄却した。5裁判官中4人の多数意見で、反対意見は『君が代斉唱の強制自体に強く反対する信念を抱く者に、公的儀式での斉唱への協力を強制することが、当人の信念そのものへの直接的抑圧となることは明白だ』として、審理を高裁に差し戻すべきだとしている。 昨年9月の東京地裁は国旗国歌の強制は違憲とし、音楽科教諭には伴奏の義務がないとも述べている。同様の訴訟は他にもある。原告敗訴の判決が多いが、福岡地裁は2005年、職務命令は合憲としながらも、減給処分の取り消しは認めている。昨年の東京地裁判決では「違反者を処分するとした都教委の通達や職務命令は違憲」とするなど、下級審の判断が分かれている。 今回の判決について新聞各社の見解が大きく分かれている。以下は各社の社説の引用である。 読売::『「思想・良心」の侵害はなかった。・・・教師には、公務員として上司の職務命令に従う義務があること、学習指導要領などの法規で国旗・国歌の指導が定められていることなどを考え合わせ、職務命令を合憲とした。妥当な判決だろう。・・・問題なのは、一部の教師集団が政治運動として反「国旗・国歌」思想を教育現場に持ち込んできたことだ。国旗・国歌法が制定され、教育関連法にも様々な指導規定が盛り込まれている現在、そうした法規を守るのは当然のことだ。』 産経:『君が代伴奏拒否 最高裁判決は当たり前だ。・・・この音楽教諭の主張は、どうみても理解しがたい。たしかに、思想・良心の自由は憲法で保障されている。教諭といえども、どのような思想を持つかは自由である。しかし、女性教諭は市立小学校の音楽教諭というれっきとした地方公務員であることを、全く自覚していない。入学式という学校の決められた行事で君が代を斉唱するさい、ピアノ伴奏をすることは音楽教諭に委ねられた重要な職務行為ではないか。校長がピアノ伴奏を命じたのは、職務上当たり前の行為である。これが「憲法違反だ」というのは、あまりにも突飛で自分勝手な論理である。これでは到底国民の支持も得られまい。』 毎日:『君が代判決 「お墨付き」にしてはいけない。・・・学校教育現場の視点からいえば、この判断を絶対的な物差しにすることには無理がある。ケースによって状況はさまざまだ。例えば今回、教諭は式前日から「伴奏はできない」と校長に答えていたが、ならばその裁量でもっと柔軟に対応し、解決する手立てはなかったのか。また、判決は、公務員としての職務命令服従の必要はいうが、無制限に強圧的な命令を認めているわけではない。・・・「正常化」を名目に一律に抑え込むような処分は、殺伐とした空気を生むだけになりかねない。その時、しわ寄せをこうむるのは敏感な子供たちである。現在教育政策では、教員免許更新制、教育委員会改革などをめぐって議論が続いている。特に教委については国の権限強化について学校教育現場を抱える自治体や教委などから反発や疑問、不安が次々に出て、国側と対立している。それは地方分権に反するというだけではないだろう。「上」からの締め付けが最も効果的ととらえるような空気が、教育行政に次第に広がっている。そんな流れが感じられてきたからではないか。戦後学校教育の原点は「自治」であり、特に学校現場の裁量に期待されるところが大きい。そのことを改めて確認しておきたい。』 朝日:『国歌伴奏判決 強制の追認にならないか。・・・たしかに、入学式に出席する子どもや保護者には、君が代を歌いたいという人もいるだろう。音楽教師が自らの信念だといってピアノを弾くのを拒むことには、批判があるかもしれない。しかし、だからといって、懲戒処分までする必要があるのだろうか。音楽教師の言い分をあらかじめ聞かされていた校長は伴奏のテープを用意し、式は混乱なく進んだのだから、なおさらだ。・・・今回の判決で心配なのは、文部科学省や教委が日の丸や君が代の強制にお墨付きを得たと思ってしまうことだ。しかし、判決はピアノ伴奏に限ってのものだ。強制的に教師や子どもを日の丸に向かって立たせ、君が代を歌わせることの是非まで判断したのではない。・・・私たちは社説で、処分を振りかざして国旗や国歌を強制するのは行き過ぎだ、と繰り返し主張してきた。昨年12月、教育基本法が改正された。法律や学習指導要領で定めれば、行政がなんでもできると読み取られかねない条文が加えられた。行政の行き過ぎに歯止めをかけるという司法の役割がますます重要になる。そのことを最高裁は改めて思い起こしてもらいたい。』 中国:『現実に、音楽教諭は前もって伴奏できないことを伝え、伴奏テープも用意されていた。それらの事情も踏まえて、伴奏を強制する「公共の利益」とは何か、処分の妥当性は―といった検証がもっとあるべきではなかったか。米国で子育てを経験したある大学の先生は「米国でも日本でも、褒める教育の大切さがいわれる」という。しかし、その中身は大違いで、日本では教師を含めたみんなと同じ意見を発表すると褒められるが、米国ではみんなと違う意見を言うと褒められる、という。日本人は体質的に均質化に向かう傾向があるようだ。それが背景にあったから、無謀な戦争に突入したのではなかろうか。教育改革の方向が「愛国」の合唱や、国の権限拡大に向かいそうなときこそ、異見に耳を傾ける必要があろう。教育行政にはそうした意味の慎重さを求めたい。』 愛媛:『君が代は必ずしもピアノ伴奏で歌われるわけではなく、今回のケースでも学校側は用意していた伴奏テープで代用した。ほかの教諭に伴奏してもらう方法もあったろう。それで不都合はなかったはずだ。嫌がる教諭に無理に伴奏させようという学校側の姿勢は、まるで「踏み絵」を踏ませるようなものだ。それを追認したような判決には疑念が募る。国旗国歌法の成立時を思い出したい。同法は広島県立世羅高校長が卒業式での扱いに悩んで自殺したのを機に、1999年8月に成立、施行された。国会答弁に立った野中広務官房長官は「法律ができたからといって強要する立場に立つものではない」と強調していた。その政府方針にもかかわらず、教育現場では国旗国歌の強制がひどくなっていく。これはどうしたことだろうか。』 沖縄:『職務命令に限界ないのか。・・・今回の最高裁判決はピアノ伴奏拒否に対する初の判断である。東京地裁は昨年、国歌斉唱行為の強制は憲法19条に違反し、許されないとする判決を下した。学校教育という側面から教師の「思想・良心の自由」に一定の制約があるとしても、校長の職務命令にもおのずから限界があるのではないか。』 北海道:『ピアノ伴奏を拒否することは、思想良心の自由の問題とは別だという。最高裁は、職務命令が合憲かを形式的に判断するにとどまった。・・・「職務命令は合憲」という今回の最高裁判決だけが、教育現場で一人歩きすることが心配だ。処分を恐れ、校長の職務命令に黙々と従うだけの教員が増えるのではないか。そのような教育現場は正常な姿からはほど遠いだろう。』 ピアノ伴奏に絞っての今回の判決と雖も、「職務命令は特定の思想を強制するものではない」とする点の今後の影響は看過できない。ただ、教職員全員に対する「君が代」の起立・斉唱の義務に対する判断でないことは明確にしておかなければなるまい。「君が代」の起立・斉唱に関して「停職」処分になっている東京都の教員がいる。これが全国に広がり、『お上の申しつけをきかない教員は許さない。文句があれば辞めろ。非国民が』ということになり、「踏み絵」を踏まない者は許さないという戦前の暗い社会へ回帰することがあってはならない。この国は教職員の個人の信条は認められないほど了見の狭い国なのか。国旗・国歌に違和感をを感じている教職員を「一部の教師集団が政治運動として」云々としたり、それが「反日的」とした十把一絡げにするExtremeには少なからぬ違和感と危うさを感じる。 |
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