日々の抄

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  千の風が吹くが

2007年03月09日(金)

 「千の風になって」のCDが何万枚も出され注目された歌になっている。TVでも何度かこの歌に纏わるエピソードが語られ多くの人を癒してきた様子が放映されている。新井満氏の訳詩によるものが大晦日の歌番組で取り上げられ注目されてきたらしいが、詩とメロディーが字余りの感が強かったり、あまりにもてはやされている様子から少なからぬ違和感を覚えている。
 この詩は、英国で1995年、BBCが放送して大きな反響を呼んだいた。アイルランド共和軍テロで亡くなった24歳の青年が「ぼくが死んだときに開封してください」と両親に託していた封筒に、その詩が残されていたという。米国では同時多発テロの翌年、犠牲になった父親を偲んで11歳の少女が朗読。米紙によるとすでに1977年、ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したと伝えられている。
わが国では、1995年に「あとに残された人へ 1000の風」(南風椎訳)として出版されている。また全盲のソプラノ歌手塩谷靖子氏が原詩に敬意を払って表現を付け加えることなく「千の風」として原詩に近い訳で歌われている。新井氏の訳詞には原詩にないリフレインが付け加えられている。

 この詩の作者は、19世紀末米国に渡った英国人、1930年代の米国人、米国先住民の伝承などの諸説があり、明らかでないが、その原点と思われる証言もある(NHK特集「千の風になって」)。
 英国のパトリック・マコーマック氏によると、「古いケルトの世界から生まれたものと思う。ケルト民族は霊魂は遠くに行かないと考えていた」という。アイルランドのパトリック・キャバナの詩に
「あなたがお墓にいるとは思わない
あなたはポプラ並木を歩いている
夏の日曜日 礼拝に出るために
私に会うとあなたは言う
牛の世話を忘れないでね、と
ありふれた言葉の間を天使が舞う
あなたが6月の麦畑を
歩いた姿を思う」
がある。
パトリック・マコーマック氏は「これは典型的なケルトの表現。自然に呼びかけ 自然が触発する」としている。

 しばらく前に注目された「葉っぱのフレディ」(レオ・バスカーリア作)にも「フレディは、葉っぱはどれも自分と同じ形をしていると思っていましたが、やがてひとつとして同じ葉っぱはないことに気がつきました」「死ぬというのも 変わることの一つなのだよ」「"いのち"というのは永遠に生きているのだ」として「千の風」と通じるものがある。

 「千の風」は、人は亡くなって姿こそ変えても風になり光になって近くにいる、というもので、大切な人を亡くした人にとって慰められ、癒される詩である。いわばレクイエムのようなものと感じられる。レクイエムは流れ行き消えるべき性質のものではない。「千の風」は、ひっそりと長く語り継がれるべき詩だと思う。そうした伝わり方が相応しい詩だと思う故に、決して商業主義とは馴染まないと感じている。そう思うと、いま流行の「千の風になって」の歌声を聞くたびに白けた気分に陥って仕方ない。

 私は両親を亡くした後の呆然とした喪失感の中で救われたのは「自分の体は親の細胞(=命)が分かれたものだ。自分の中に親の命が伝えられている。だから自分を大切にしていかねば」と思えたことだった。

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