物理の歴史(波動)

スネル(Willebrord Snell von Rpoken 1591-1626)
オランダのライデン大学力学教授であった。はじめ法律を学んだが数学、天文に非常に興味を持った。
1615 スネルの法則(1620年の説もある)スネルは、水中の物体の浮かび上がりを観察し、空気中の長さと水中の長さの比が見る方向に関係なく一定ということを見出した。スネルは一度もその発見を公表しなかったが、ホイヘンスとイサーク・フォス(オランダの古典語学者)らによって発表された。
スネルの述べる法則は
  「同一媒質については、入射角と反射角余割(cosecant=sinの逆数)の割合は、常に同一値である
としている。スネルはこの法則を実験的に確認した。現在広く知られている屈折の法則は、デカルトが1637年に著した<屈折光学>の中で示したものだが、デカルトはスネルについては言及していないので、デカルトが独自に発見したと思われる。
ただ、デカルトは実験から求めておらず、光の粒子説に立っていたデカルトは高速が密度の濃い媒質中で大きいという誤りの仮説に基づいて論じている。
1617 三角測量の方法を考案した。
1741 彼の死後、モーペルチュイ(P.L.Maupertuis 仏)は「最小作用の法則」を著し、最小作用の法則に、「作用量」:質量×速度×径路を導入。光の粒子説をとっていたので、光にも粒子にも成立するとし、非弾性衝突、スネルの法則を説明した。


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ホイヘンス (Christian Huygens (1629-1695)
オランダのハーグで生まれた物理学者・天文学者・数学者である。ホイヘンスは、父の友人のデカルトの教育を受けて育った。父コンスタンチンは、ガリレオの友人で、資産家、国会議員であり、恵まれた環境で教育を受けた。最初はライデン大学で数学と法律を 学んだが後に数学、物理学をはじめ多くの領域の研究をした。フランスのルイ14世に説得されて1666〜1681年にパリに滞在した。
ニ ュートン、ライプニッツと同じく生涯結婚しなかった。ホイヘンスは「光論」の前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。
1650 「流体静力学」
1651 「数学的曲線の求積法」
1655 製作した望遠鏡で、土星の輪と衛星タイタンの発見
1656 「物体の運動について」
1657 振り子時計を発明、特許を得る。ゼンマイを使用。当時の時計は太陽の動きにあわせて係りが時計の針を修正していたので30分位のくるいがあった。ホイヘンスが発表した振り子時計の論文により時計の精度は飛躍的に進歩した。
1673 「振り子時計」を著す。遠心力の公式、複振り子、重力加速度等を論じる。
1678 著書に『振子時計』(1673年)、『光についての論考』(1690年)などがある。振り子や光、土星などの研究にも力を注いだ。ホイヘンスは、光が進むのに時間を要すること、光は縦波の性質を持ち、エーテル粒子の弾性衝突によって進むことなどを提唱し、ニュートンの光の粒子説と対立した。ホイヘンスの原理で光の波動説(縦波説)、素元波の考え方を示めした。またエーテルの存在を主張。部分波の伝播は述べられていたが、周期性、干渉性などには及んでいなかった。したがって、ニュートンの説明した色の成因を説明することができず、1世紀の間、ニュートン説が優勢であった。波動説の根拠は、光の速度が有限であること(レーマーの計算)、交差した光が何の影響もおよぼさないことであった。エーテルは「衝突振り子」が瞬時に振動を伝達するように硬く、「調和振動」をして振幅に周期が依存しないような弾性体であるとした。また複屈折の起因を粒子が楕円であるためとし、物質の屈折率も求めた。
1690 方解石を重ねた偏光実験をし、「光論(Traite de la lumiere)」出版。最初書かれたのは1678年で以後追記されて刊行された。前書きで、仮説と演繹の重要性を明確に強調した。ホイヘンスはエーテル内の振動が音と同様に縦波であると仮定していたので偏光現象を説明できなかった。論文「重さの原因について(Discours sur la cause de la pesancur)」で、重力の成因を微小粒子による渦運動の反作用であるとした。
1703 「衝突による物体の運動について(De motu corporum ex percussione)」が死後出版された。この中で慣性の法則、相対性、弾性衝突を公理として衝突の理論を展開した。現在の運動エネルギー、運動量保存の概念に相当するものに到達していた。書かれたのは1669年であった。

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マリュス(Etienne Louis Malus 1775-1812)
パリに生まれ、陸軍技師としての教育を受け、ナポレオン戦争に従軍した。その後アントワープとストラスブルグで進められていたフランス軍の監督時代に、複屈折に関するフランス協会の懸賞問題の研究を始めた。偶然1個の結晶をリュクサンブール宮殿(ルネッサンス様式)の窓から、自分の住んでいたダンフェール街の家に反射されてくる太陽の像を見ていたら、結晶がある特定の位置で2重像の一つが消えてしまうことを発見した。はじめ、光が大気中を通過する際に何らかの作用を受けるためと考えたが、夜になって水平に36度の角度で入射するロウソクの光が同様な結果をもたらした。しかも方解石から出た2本の光が36度の角度で同時に水面に入射し、そのさい通常の光線の方の一部が反射されたとすると、異常な光線の方は少しも反射されなかったことを確かめた(1808)。
偏光(polarisation)」という名称を使用した。

  この頃の波動説では偏光について説明がなされなかった。光が波動であることを実験で示したトーマス・ヤングは1811年、マリュスへの書簡で次のように語っている(ヤングは光の微粒子説派であった)。
「貴下の実験は、私が採用した(干渉の)理論の不備こそ示していますが、この理論が”偽り”だということを証明するものではありません」
  さらに1817年ヤングはアラゴ(*1)への書簡で次のように書いている。
「すべての波動が音の波動と同じく、同心球面を作って均質の媒質の中を単純に伝播され、半径方向に沿った球面粒子波の前進後退運動と、それに伴う凝縮と希薄化とができているというのがこの理論の原理です。しかもこの理論が横振動を説明することも可能なのです。それは球面粒子波の運動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動が、その半径に関して、ある一定の方向に向いているからです。この横振動こそ’偏光’なのです」。
*1 アラゴ(フランスの天文学者、物理学者。1805年経度局の一員としてJ.B.ビオとともに子午線測量に従事。1809年エコール・ポリテクニク教授、1830年パリ天文台長。フレネルとともに偏光の実験から光の波動説を実証(1816年)、電流による鉄の磁化の実験(1820年)、アラゴーの円板の実験など光学、電磁気学に貢献もある。

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ブリュースター(David Brewster 1781−1868)
エジンバラ大学で宗門にはいるための教育を受けたが一度も宗門の仕事をしなかった。英国科学振興協会の指導的立場だった。
万華鏡(日本には江戸時代末期に伝来した)を発明、複屈折を研究。英米両国で一時万華鏡を求める数が供給限度を遙かに超えたという。
1815 偏光角の法則を発見。偏光の数値化した。偏光角をα、屈折率n のとき、tanαn
1818 光学的に2軸性な結晶を発見
1834 バンドスペクトルの発見。発煙硝酸を通した太陽スペクトル中に暗線とバンドを見出し、化学分析応用を模索した。

ヤング、アラゴ、フレネルらが光の波動説の研究を成し遂げた後に至っても、ブリュースターは波動説から離れることはなかった。  「光の波動説に対する私の一番大きな反対は、造物主が光を作り出すためにエーテルで空間を満たすというような、そんな拙劣な仕掛けをする罪を犯したなどとは、とても考えられないことにある」と自説を曲げようとはしなかった。

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ユークリッド(エウクレイデス、エウクリデス、Eukleides)BC323〜285
反射の法則はユークリッド、ヘロンらによって紀元前から発見されている。
ユークリッド幾何学「原論」と、幾何光学の創始。
 「光学」「反射の光学」などを著す。平面・曲面における反射の法則。
 「optics=光学」の語源は彼の視覚論「Optica」に由来する。

ユークリッドの個人的生活に関してほとんど知られていない。また、推論されるほとんどのものは5世紀に書かれ、プロクロス(412−484 新プラトン派最大の体系思想家)による。プロクロスによれば、ユークリッドは、アレキサンドリアでプトレマイオス1世Soter (BC323〜285)に数学を教えていた。

ユークリッドについて短い2つの逸話がある。
1つは、ユークリッドが、若いエジプトの王であるプトレマイオスを教えていた時、彼は「原論」によらずに幾何学の熟達へのより短い道があるかどうか尋ねられましたとき、ユークリッドは「幾何学に王道はない」と返答したと言う。第2の話は、幾何学を学んでいた一人の学生に、幾何学の新しい概念の学習のために、彼が何を得るだろうかと問われた。ユークリッドは、「彼は学習したら得をしなければならない」のだそうだからと、彼にコインを授けるように彼の助手に命じた、という。
BC1世紀 ヘロン(Heron、アレキサンドリア)
反射の法則(光線の最短経路、入射角=反射角)
BC1世紀 ルクレティウス(Titus Lucretius Carus)
著書「物の本質について」に光の反射についての記述あり。

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フェルマー(Pierre de Fermat 1601-1665)
フランスのモントーバンに生まれた数学者。法律を学び弁護士を開業。
1629 フェルマーの定理。「極大・極小研究のための方法」を著す。また、フェルマーは微積分に非常に長けていた。

1643 「平面および立体軌跡入門」(死後1679年出版)
アポロニウスの円錐曲線論を復活、解析幾何学の方法を用いる方程式と図形(座標の軌跡)の関係を明確化もした。放物線の接線の方程式、解析幾何学の創始、デカルトと並んで解析幾何学の発見者とされる。1658 光線の通路を経過時間の最小値とするというフェルマーの原理を発表した。

1661 地方議員になり、余暇に数学を研究。整数論、確率、曲線の極限などを研究した。屈折の法則を導き出した。フェルマーの原理、による光の直進、反射、屈折の説明。光線逆進の原理の説明。フェルマーの原理は「光がある媒質の1点から他の1点へと’最も少ない時間’で進み、また濃密な媒質内では速度はより小さい」というもので屈折の法則を証明するものである(式は本文参照のこと)。

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ニュートン(Isaac Newton 1642-1727)
(ニュートンの力学に関する内容は[8-2万有引力]を参照のこと)分光学の創始・光学の研究。
1664 かなり初期から反射・屈折の法則の知識があり反射望遠鏡の開発に着手。光についての最初の観測は、太陽のコロナに関するものであった。
1666 非球面レンズの製作に挑戦しプリズムを製作。
1666〜7 プリズムによる分散現象(1672年「色と光についての新理論」で公表)2重プリズムの実験から白色光(太陽光)が色の集まりであること、色が光の固有の性質であること、物理学と視覚の生理学の関連の明確化。光が「実体性」粒子であると主張。
1668 色収差、球面収差の除去法を考え反射望遠鏡を開発した。
1672 「色と光についての新理論」著す。光の粒子説を唱えホイヘンス、フックと4年越の論争が続いた。

フックの薄膜の干渉色による反論として「エーテル」の振動説。ニュートンはエーテルと粒子との相互作用という折衷案を提示した。
1675  ニュートンリングの干渉色は光の粒子が「周期性」を持つと考えた。「光学」の中で、光の透過性、反射性の「発作(fits)」により進行距離に依存した部分反射・透過がおきるとした。つまり、『光が透明物質に進むときに、反射と屈折のいずれも存在するということは微粒子説によると説明がつかない。このことを説明するためにニュートンは、容易な反射と容易な伝播(屈折)の’発作’が普遍的なエーテルによって微粒子に伝えられると提唱した。飛翔する微粒子の進行は、表面付近のエーテルを刺激し、その結果エーテルの続く圧縮と希薄化が生ずる。このエーテル圧縮の瞬間に、表面に到達した飛翔微粒子ははね返される。逆に、もし微粒子が希薄化の瞬間に到達すると、その進路は妨害されることが少なく、通過することになる。』
  これがガラスなり水の表面がどのように飛翔する微粒子からなる光線を一部を反射し、一部は屈折するかのニュートンの説明である。
また、複屈折を光の粒子が微小磁石のような性質から説明しようとし、「polarization」という言葉を用いた。また、「スペクトル」という用語も「光学」の中で名づけられた。

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オーギュスト・フレネル(Augustin Jean Fresnel 1788-1827)
フランスブローイ生まれの物理学者。幼いときは物覚えが遅く、8歳になってもほとんど読むことができなかった。トーマス・ヤングと対照的である。13歳にカン市(北仏の港町)の中学に入学。16歳にパリ理工科大学および土木学校に学び、土木技師になった。1823年フランス学士院、1825年イギリス王立協会会員。
1815 王統派であったフレネルは、100日天下の時、投獄された牢屋の中に差し込む光で回折理論を考えたという。回折を波の集まりとしてとらえ、半波長帯を考えた。フレネルはヤングを敬愛していた。この時点ではヤングの理論を知らなかった。
1816 アンペールがフレネルに光が進行方向と直角に振動していることを示唆。
1816〜18 アラゴーと共同で、偏光の実験し、常光線と異常光線が干渉しないこと。また偏光の異なる光は干渉しないことを確認し、横波説を考えたが、力学的に説明できなかった。アラゴーは光が横波だと、エーテルが剛性を持たなくてはならないため観測事実に反すると反対した。

1818 光の波動論の確立:回折と偏光の理論光の回折に関する研究、ヤングの実験の理論的正当化。横波としての光の数学的理解。偏光・複屈折の説明(アラゴーと共同)した。フレネルの静止エーテル理論は、地球がエーテルに対して動いていなければ、光行差は生じず恒星は静止していると考えた。「フレネルの半波長帯」、光路差がλ/2ごとに異なる同心円状の帯を考えて回折を説明した。
1821 偏光について実験を行い、全反射が横波でなければ説明つかないことに自信を持った。

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トーマス・ヤング(Thomas Young 1773-1829)
イギリスサマセットシャー州ミルバートンに生まれた。
2歳にはすらすらと本を読みこなし、
4歳には聖書を2度も読み、
6歳にはゴールドスミスの長詩<廃墟の村>を暗唱したという。
13才の時には、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、イタリア語が読め、博物学や自然科学の勉強を始め、14才には彼は独学で、ヘブライ語、カルデア語、シリア語、アラビア語、ペルシャ語、トルコ語、エチオピア語など多数の中近東の古代、近代語の勉強も始めた。このことは後年、シャンポリオンとは独立に行われたロゼッタ・ストーンのエジプト象形文字の解読研究や、エジプトの研究において優れた業績を上げるもとになった。
16歳頃、奴隷貿易に反対し、砂糖を口にしなかった。19歳で医学教育を受けケンブリッジ大学で学び、ロンドンで開業。熟達したラテン、ギリシャ学者であり、同時にニュートンの「プリンキピア」や「光学」、ラヴォアジェの「化学要論」等多くの自然化学の主要著作に親しんでいた。王立研究所(前年ラムフォードが開設)の自然哲学(物理学)教授になる。1802年王立協会の外事書記に任命され終身この職にあった。

1793 乱視と目の構造に注目し、以降光学の研究を続けた。
1801 王立協会で薄いガラス板の色についての論文で光の波動説を主張。
『起源の違う2つの波動が、その方向を完全にかあるいはほぼ完全に一致させたときは、その2つを合わせた効果は、そのおのおのの波動に固有の運動を組み合わせたものにほかならない』と、干渉の法則を示唆したフックの’微小物体学’にあるが、ヤングも独自にこの考えに至った。ヤングはこの法則を音と光に徹底的に適応した。この干渉の論文はブルーム卿らに攻撃を受け、ティンダルが言うように「20年間もこの天才の火は消された」。彼の権利回復に尽力したのはフレネル、アラゴの二人である。
1802 論文「色と光の理論について」により、エーテル媒体説、色は波長によることを仮定。干渉、回折についてのべ、回折をエーテルの密度差より説明。1807 「自然哲学講義」を著す。この書物には、王立協会でヤングが行った講演のすべてを収録している。これにはジョセフ・スケルトンの手になる美しい版画が入りで、この書物に収められているヤングの講演の内容は、乱視について初めて記述したこと、「エネルギー」(ギリシア語の「活動:エネルゲイア」が、語源)を物体の質量に速度の二乗を乗じた積(Fmv2)として初めて用いたこと、ホイヘンスの学説に賛成して光の波動理論を作り上げたこと、(いわゆる「ヤングの複スリットの実験」)潮汐のヤング理論など、電気に関しては二つの講演が入っていて、その一つは磁気に関するものヤングがいわゆる「ヤング率」を導入し、現在でも一般に用いられている定義を確立した弾性に関する講演など、ヤングの研究の主要なものについての研究経過とその成果である。
 これらの講演は当時における最も完全、最も正確な物理学の研究であると現在でも考えられている。チェルニンがヤングを称して「(色の知覚についての)生理光学の父」といい、後になってヤングと同じ光の波動を研究したヘルムホルツは「この世に生を受けた最も明晰な人」であると考えていた。

いわゆる「ヤングの複スリットの実験」での結果
光の波動説によって説明できる現象である(当初は光を縦波と考えた)
求めた光の波長はニュートンリングより求めた値と一致した。光の色により、干渉の径路の差が異なる事は、波長=色であるということであり、
赤色=0.7μm、青色=0.4μmであることが分かった。
フレネルの干渉実験の結果を受けて、偏光どうしが干渉しないことより、光は横波であると指摘した。
1814 ビオらの粒子説による複屈折の説明を批判、しかし論破できなかった。

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グリマルディ(Francesco Maria Grimaldi 1618-1663)
父が絹を販売し経済的に豊かな家に育った。イタリアの物理学、数学者、イエズス会神父。ボローニャの教授職にあった。1640〜 1650年の間自由落下を研究した。時間は振り子を使用し、落下距離が時間の2乗に比例することを確認している。1665年に暗室に一条の光を導き、光が物体の影に回り込む事を観察し()、回折現象をはじめて発見
(レオナルド・ダビンチは 早くに注目していた)。
回折という用語を使った。「光に関する物理・数学」を著す。光の波動性を示唆した。
天文学では月面の暗部を詳細に観察し月面図()を作成した。

グルマルディの研究はフレネル。フック、ホイヘンス、ニュートンらの多大な影響を与えた。


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ドップラー(Christian Andreas Doppler 1803-1858)
ザルツブルグの石工の家に生まれたオーストリアの物理学者、数学者。幼い頃は虚弱であったという。
1835年 プラハ工科大学教授。
1842年 二重星に関する研究から光に関するドップラー効果を発見。つまり、発光体の色が、発音対の音の高低と同様に、発光体が観測者の方へ近づいたり遠ざかったりする運動で変化するはずと考えた。音については、バロート(1817-1890オランダの気象学者)が、列車で実験した。駅を急速に通過する列車上の人は、駅で鳴 っている鐘の音が、列車の近づくときは実際より高く、遠ざかるときは低く聞こえることに気づいた。
1850年 ウィーン大学物理学教授、物理学研究所長。収差、色彩論、光学距離計の改良を行った。49歳で肺結核で亡くなる。

 キーラー(1857-1900アメリカ)は二重星、星の運動についてドップラー効果を使って成功し、1895年には土星の内側の明るい環の中側のふちが21Km/s動くうちに外側の環のふちが16.1km/sしか動かないことを明らかにし、全体として一つの固体でないことを発見した。

1859年には、化学者ロバート・ウィリアム・ブンゼン(1811-1899)およびガスタブ・ロバート・キルヒホッフ(1824-1887)が、炎、プリズムによる生じる光を広がること、および特定にイオン化された要素としてのスペクトル内の特殊な可視線のスペクトル分析を開発した。星の典型的なスペクトル線中にドップラー効果による波長のずれが観測された。

                                       

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レーマー(Christensen Roemer 1644-1710)
レーマーはデンマークの商人の息子だった。彼はコペンハーゲン大学に学んだ。そこで彼はErasmus Bartholin(アイスランドの氷晶石の複屈折の発見で知られている医学教授)に認められTycho Brahe の原稿の編集の仕事を任された(1664 年〜1670)。

1672 年に、レーマーはピカールとともにパリ王立観測所で働き始め、すぐ後にルイ14世Dauphin の天文学の個人教師、科学のフランスアカデミーの観測所での研究を任命された。

しかし最も大きい業績は1676 年、最初の比較的正確な光速の測定だった。木星のいくつかの衛星の蝕を観測した。
これらの衛星がその軌道を公転する周期は、年間のすべての時期で同じでなく、木星の見かけ上の大きさが減っていくときにはその値が平均値より大きいことに気づいた。観測された不規則性が光速が有限であるという仮定の下に成り立つと確信していた。
   1676年フランス科学アカデミーへの発表では「その11月に起こる木星の第1衛星イオの食が、8月の観測に基づく計算による
時間より約10分遅れる、と予言し、この食い違いは光が木星から地球までに届くのにかかる時間によると仮定すれば説明できる」とした。
  11月9日、この食は5時35分45秒に起こったが、計算では5時25分45秒に起こる予定だった。11月22日、レーマーは自分の理論を詳しく説明。光が地球の軌道を通過するのに22分かかると述べた(現在は正確には16分36秒であることがわかっている)。ピカールは賛同したが科学アカデミーやカッシーニは彼の理論を受け入れなかった。
   レーマーは木星の第1衛星に計算の基礎を置いたが、それ以外の他の3つの衛星による同様な計算では、成功しなかったと述べている。その後フランス皇太子の牧師になり、後にクリスチャン5世によってデンマークに呼び戻され王立天文台長になったが、パリでの名声は薄らいだ。
第1衛星以外に対する疑問をどのように解決したかについては分かっていない。レーマーは多くの天文学的観測結果を残したが、その殆どが1728年コペンハーゲンの大火で消失した。レーマーの理論は英国のハレー(ハレー彗星で知られる)に支持され、ブラッドレーによる新しい方法で検証されることになる。

1728年の光速測定
木星(公転周期11.86年)の衛星(ioイオ;英語ではアィオ)の食の周期(約42時間28分36秒)が、地球と木星の太陽に対する相対位置によって異なることにより光速を測定した。左図の地球E1、木星J1が太陽Sと同じ側にあって太陽と同一直線上にあるときにはじめの食があった(緑色の点が衛星)とする。これから地球E2と木星J2が太陽Sの反対側にあって一直線上になるまで113回の食がある。レーマーはこの113回の食が計算結果より遅れるのは、光が地球の軌道直径を通過する時間が原因と考え光速を計算した。
  この113回の食の時間t は食の回数をN、イオの木星に対する公転周期をT、地球の公転直径をL、光速をc とすると
の関係がある。
L=2.986×1011m、時間ずれを16分36秒=996秒とすると、c=2.998×108m/sである。

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ブラッドリー(James Bradley 1693-1762)
  ブラッドリーは、光行差の発見で知られる英国の天文学者。発見は地球が太陽のまわりで移動したというコペルニクスの理論を立証する重要な証拠、光の速度を推定する方法を与えた。
  経済的理由でブラッドリーは聖職者になりBridstowで生活したが、彼の科学的な努力およびエドモンド・ハレーとの友情により1718年に英国学士院に選ばれた。オクスフォードの教授を1721年までつとめた。ブラッドリーは1728年に英国学士院に彼の発見を発表した。
  ブラッドレーは恒星の視差の決定に苦心していたが、その変位が予想より全くかけ離れていることを発見。ほとんどこのことについて諦めかけていたが、思いかけないことがひらめいた。「1728年9月のある日、テームズ川の帆船の周遊会に同行したとき、船が方向を変えるごとに風向きが変わるように思われることに気づいた。船員にわけを聞いてみると、帆柱の上端にある風見の方向が変わるのは、ただ船の進路が変わることだけによるもので、その間風向き自体は変わらず一定だったということだった。これが手がかりになり、光の伝播に地球が軌道上を進むことが加わって、天体が見える方向に(光速度と地球の公転速度という)2つの速度の比による分量だけ、年間のずれができるに違いないとすぐに悟った」。
  光行差(下注参照)の値から太陽光線が地球に到達するのに8分13秒(現在は約8分20秒)かかると推定した。ブラッドレーはニュートンの光の微粒子説に基づくと、光行差が簡単に説明できることを発見した。ブラッドリーによる測定で光速は295、000Km/sだった。

  ブラッドリーによる発見は地球の軸の章動の発見だった。視差に関する研究を行なっていた時、最初に変動に気づいたが、章動が月の引力によって引き起こされると信じていた。1747年に彼の研究を終えて、1748年に英国学士院で発表した。ハレーが1742年が死亡の後グリニッジ観測所の後継者となった。彼の観察の大部分は死後に公表されるが、非常に正確な星図を研究し続けた。

ブラッドレーによる竜座γ星の視差の測定(右図)
ブラッドレーは6月から12月にかけて天球上でS'からS''へと見かけ上の動きを示し、3月と9月ではその中間を占めると予想した。
しかし、実際はこの恒星の位置は、6月と12月には同一だった。視差の影響は何一つ見いだせなかった。しかも、奇妙なことに3月と9月にはこの恒星は同一位置にあるようには見えなかった。

(注) 光行差と光速測定
風のないときに、動く電車中から雨の動きを見ると、斜め手前に降って見えるように、動く観測者には光速度が実際の向きと異なって見える。地球は公転軌道上を29.8Km/sの速度で動いているので、観測している恒星の位置は実際の位置と異なることになる。この現象を光行差という(地球の公転によるものを年周光行差、自転によるものを日周光行差という。ここでは前者である)。
左図のように地球の公転軌道面にあって公転速度に対して直角方向にある恒星Pから届く光が距離ABを通過する間に観測者がABに直角にBCだけ動くと、恒星はBAの方向にあるように観測される。見かけの角度は、で与えられるから、年間を通すとP1、P2と左右にずれて円軌道ないし楕円軌道を描くようにずれて見える。
実際の観測によるとα=20.47秒(角度1秒は1度の1/3600)=9.9267×10-5rad≒tanαから、
光速度 c=29.8×103/9.9267×10-5=2.9966×108m/s

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フィゾー(Armand Fizeau 1819-1896)
フィゾーは、地球上の光速度を決定する方法を開発したことで知られているフランスの物理学者。以前に、光速度は天文学の現象に基づいて測定された(レーマー、ブラッドレーなど)。
フィゾーは1819年9月23日にパリで生まれた。彼の父親は王政復古期間中の医学の有名な内科医および教授だった。フィゾーは経済的に潤沢で、自分の好きな研究手段の大半を私財でまかなった。
彼は、パリのStanislas大学で医学を志したが、病気のために進路変更した。代わりに、フィゾーは、パリ観測所でフランソワAragoとともに研究した。
  1839年には、フィゾーは新しいダゲレオタイプ(銀板写真)写真術に夢中になった。1845年に太陽の表面の詳細な写真をとることにより天文学の観察のためのダゲレオタイプ写真術を開発した。さらに1847年太陽からの熱線が波動として作用することを発見した。初期の頃フィゾーはフーコーと研究をともにしていた。
 フィゾーは歯車をつけた車輪を回した。車輪が規則正しい間隔で光を遮り、断続する閃光は遠方に置かれた固定鏡で反射させた。この実験は、パリ郊外のシュレンヌとモンマルトル間8633mの距離で行われ、論文は1849年に発表された。彼の計算は、313300Km/sであった。
 フィゾーは、さらに光の別の重要な現象を研究した。光が通り抜けている媒質の運動にかかわらず、光の速度が定数であることを実証した実験を行なった。光が異なる媒質を通って異なる割合で移動したことは以前に確証されたが、もし媒質が動いていれば、光速度の速度が増加させられるだろうと信じられていた。フィゾーは、彼が液体を流すことによって光速度を測定した研究を行なった。驚いたことに、液体の移動によって光の速度が増加しないことを発見した。彼の観察は、光の特性に関してニュートンの古典的力学の法則に矛盾していた。これは後にマイケルソン、モーリーによって確認された。
  1866年には、ロンドンの英国学士院が彼にランフォード・メダルを与えた。偉大な科学者および共同者は長年彼の努力を継続したが、大多数の彼の重要な仕事は彼の初期の研究に行なわれた。
  光速度の測定はレーマーによる1676年の突破口となる努力で始まって、光速度は、種々様々の異なる技術を利用する100人を越える少なくとも163回測定された。はじめての測定から300年以上後に、1983年光速度は毎秒299、792.458キロメーターであることとして定義された。したがって、光が1/299、792、458秒の時間に真空中を移動する距離を1mと定義される。


  図のように歯車H(コマ数N=720、回転数=12.6回/s)、凸レンズL1〜L4を配置する。
Sから出された光はレンズL1を通り、半透明鏡で反射され歯車を通って左側のレンズL2(この焦点位置歯車があるので平行光になるに)を経て、L3を通りこの焦点位置に鏡M1が配置されているのでM1での反射光も平行光になる。歯車とM1間での距離L は8633Kmである。反射光が再び歯車Hの歯の間を通ることができると、M2を通りレンズL4から観測者の達する。
  歯車をゆっくり回転させ歯車の歯の間を通った光が反射され再び歯を通り抜ければ明るく見えるが、反射された光が歯に遮られると見えなくなる。このときの歯の回転数から光速c を測定する。光が距離L往復する時間tt=2L/c、回転による、歯の隙間から歯までの時間t'は である。tt ' からc=4NnL の式から光速が計算できる。歯車の回転数nが12.6ではじめて暗く見え、このことから、それぞれ数値を代入し c=313300Km/sが求められた。

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フーコー(Jean Bernard Leon Foucault 1819-1868)
 フーコーはフランス・パリの出版社の息子として生まれた物理学者。彼は光学と力学の実験で有名で、極端な精度と光速度とを比較する方法を開発した。フーコーは、地球がその軸を中心に回転することをフーコー振り子で証明した。
 フィゾーに会い、太陽の表面の詳細な写真を撮り、1849年に光速度を正確に測定する方法を開発した。フーコーは、空気中の光速度が、それが水の中にあるより大きいことを証明し、ニュートンの微粒子説を否定した。
   フーコーは1851年、振り子を使って地球の自転を証明した。実験は4カ所で行われた。最初の実験はダッサ街の彼の別荘の地下で行われた。5kgの重さの真鍮球が鋼鉄線でつり下げられた。球は傍らに寄せられ、糸が完全な静止状態になるまで、その位置に留められ糸を焼き切って放された。この振り子は一定の垂直面内を振動し始め、地球の自転を実験で明らかにした。人間の目には振動面が回転し、地球が静止状態にあるように見えたが、この見かけ上の運動の角度は地球が同一時間内に回転した角度に実験場所の正弦を乗じたものと等しいことが分かった。第2回目はもっと好条件が必要としてアラゴに勧められ天文台の建物を使った。天文台で11mの長さの振り子を使って正確に検証した。第3回目はナポレオン3世の好意によりパンテオンが選ばれ、28kgの球が厚さ1.4mm、長さ67mの針金でつり下げられた。パンテオンは見物客で一杯になった。第4回目は万国博覧会で行われた。
  また、フーコーは軸線のまわりで地球の動きを示すためにジャイロスコープを発明した。1855年に磁界(それらは時々フーコーの流れと呼ばれる)によって生成された渦電流の存在を実証した。彼は麻痺の突然の発作に苦しみつつ48歳で亡くなった。

フーコーによる光速測定法
フーコーは回転する鏡の反射を利用して、光の速さを測定した。その原理は次のようである。図に示すように、光源Sから出た光はスリットを通り、半透明鏡Hを通り抜けて平面鏡Rにより反射され、凹面鏡Mに達する。Mで光はもと来た道をたどり、Rが静止していれば回転平面鏡で反射し、さらに半透明鏡上のQ点で反射してPを通る。いま回転平面鏡RのOを中心として一定の回転数n(回/s)で回転させる。OM 間の距離を l、光の速さを c とすると、光がOM 間を往復する時間はt=2l/c となる。この間に平面鏡Rは角θだけ回転している。そのため光は半透明鏡のQ' で反射されPを通らず、Pよりごくわずか離れたP' を通る。この際、角度∠QOQ' をθで表すと右図により、鏡がθだけ回転すると反射光は
∠QOQ'=∠QOR'−∠Q'OR'=(α+θ)−(α−θ)=2θ  だけずれる。
鏡は1(s)間に2πn (rad)回転するので、θ(rad)回転に要する時間t (s)間は
だから  が成り立つ。よって光速は  で得られる。
 フーコーはn=800、l=20mとしてc=298600Km/sを得た。

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マイケルソン(Albert Abraham Michelson 1852-1931)
1880 ベルリン大ヘルムホルツの研究室で「マイケルソン干渉計」の雛形開発。その後、グラハム・ベルの資金援助によりベルリン機械製作所で高精度版製作。
1881 ベルの援助の下、マクスウェルが提案した干渉計を製作。ベルリン、ポツダムの天体物理観測所で最初の実験。ベルリンでは交通により、ポツダムでも干渉計の回転軸のブレにより測定できなかったが、マイケルソンは、エーテルの相対速度はないと発表してしまった。ケルビン卿やレイリー卿の関心は呼んだが、学会には認められず、失意のうちに光速度測定の研究にもどる。クリーブランドのケイス応用科学学校(現ケイス工科大)の物理教授に近くのウエスタン・リザーヴ大のモーレーと知り合う。
1887 光速度の等方性干渉実験「エーテルの風」の痕跡がないことをモーリーとともに実験。これでエーテルの存在を否定した。
1926 フーコーやフィゾーの装置を改良し、ウイルソン山とサンアントニオ山の間の35km の距離を用いて
    c=2.99796 ×108m/sの値を得た。

左下図の装置で、スリットSを出た光は正八角形の回転鏡Rの一面a、平面鏡M1、M2で反射され凹面鏡C1での反射によって平行光になり、遠方の凹面鏡C2に達し、その焦点にある平面鏡M3で反射されて、再び凹面鏡C1至り、平面鏡M4、M5、回転鏡Rの一面bでの反射の後プリズムPを経て望遠鏡Tで観察される。
回転鏡aから入った光がbに達するときb面に鏡面がなければ望遠鏡で光を観測できない。b面からの光が見えるようにRの回転数を調整し、35.385Km先にC2を置き、528回/sの回転数で調べた。
この結果
 
を得た。

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クインケ(Georg Hermann Quincke 1834-1924)
ハイデルブルグ、フランクフルトの物理学者。ヴュルツブルク(1872)、ハイデルブルグ(1875-1907)の教授だった。
金属の光学特性、液体の分子力、毛細管現象を研究。音波干渉計であるクインケ管を1866年考案し、音波の波長の測定を可能にした。
弟子に陰極線発見者Philipp Lenard (1862-1947)とMax wolf (1863-1932)がいる。





                   クインケ管