物理の歴史(原子)
Johann Jakob Balmer (1825-1898)
彼は、数学に優れカールスルーエの大学、ベルリンの大学に通った。1859年から1898年の死まで、彼は女学校の数学教師だった。1865年から1890年まで、彼はさらに幾何学をバーゼルの大学の数学の大学講師だった。Balmerは、水素原子のスペクトル線の波長のために、1885年のスペクトル系列の定式によって知られている。彼が水素原子のスペクトル線上で有名な論文を書いた時Balmerは60歳で、他の研究を書いた時が72歳だったことは驚きである。Balmerの有名な定式は正確であった。スペクトル線の定式のもつ理由は、Balmerの生前は理解されず、1913年にニールス・ボーアの理論的な仕事まで待たなければならなかった。
Carl David Anderson (1905-1991)
ニューヨークでスウェーデン人を両親として生まれた。1927年にカリフォルニア工科大学を卒業し、物理学とエンジニアリングの学位を得た。
同大学に残って1933年に助教授、1939年に教授となった。彼はX 線の分野を早くから研究し,X線が様々なガスから出した光電子について研究した。
1932年に陽電子(ポジトロン)の発見に結びついた宇宙線研究を始めた。物質を通過する際の宇宙線粒子のエネルギー分配と非常に高速電子のエネルギー損失を「ウィルソン霧箱」を使って研究した。1937年にはネッダーマイヤーとともに宇宙線中に中間子の存在を発見し、さらに1949年にはμ中間子の自然崩壊によって、電子と2個のニュートリノとが生ずることも明らかにした。
第二次世界大戦中にマンハッタン計画の責任者を依頼されたが断り、オッペンハイマーが就任したことはよく知られている。1936年 「陽電子の発見」によりノーベル賞を受賞。
Clinton Joseph Davisson (1881-1958)
デービィソンはアメリカのイリノイ州ブルーミントンに生まれた実験物理学者で、彼はブルーミントンの公立学校に通い、その後シカゴ大学で物理学を学びミリカンの影響を受け、ミリカンの推薦でパデューカ大学の助手になった。
1905年9月に再びミリカン教授の推薦に従って、彼はプリンストン大学で物理学の助手、カーネギー工科大学で助教授をしてから現在のベル研究所の前身で軍事用無線通信の研究に参加し、1946年までここにいたが、その後バージニア大学教授となった。デービィソンの業績は、1919年にクンスマンとともに白金板で反射された電子ビームの角度分布を調べ、その角度にいくつかの強い極大を発見した。この現象がド・ブロイの理論で説明できることをエルザッサーが明らかにした。また、このエルザッサーの示唆に基づきデービィソンはジャーマーとともにニッケルの単結晶を用いて、金属箔によって散乱された電子ビームの回折現象を証明する実験に成功した。こうした研究はトムソンや菊池正士らによって発展された。これは電子顕微鏡の理論的研究にもつながった。
1937年「結晶による電子線回折現象の発見」によりG.P.トムソンとノーベル物理学賞受賞。
Francis William Aston (1877-1945)
アストンはイギリスの化学者、物理学者で、1877年にバーミンガム近郊に生まれた。バーミンガム、ケンブリッジの両大学に学んだのち、3年間醸造関係の仕事をしていたが、次第に真空放電の現象に興味をもち、アストン暗部として知られている現象を発見した。1910年J・J・トムソンの招きでキャベンディッシュ研究所に入り、ネオンの同位元素の分離に従事した。
アストンは第一次世界大戦後の1919年質量分析器(アストンの質量分析器)を開発し、ほとんどの元素が同位体をもつことを示し、同位体の発見と整数法則を発見。それらの分離と質量の精密測定に成功した。1935年には国際原子量委員会議長をつとめた。
1922年ノーベル化学賞受賞「非放射性元素における同位体の発見と整数法則の発見」により受賞
Kenneth Tompkins Bainbridge(1904 - 1996)
ホーレス・マン学校およびホーレス・マン高校に通って、ニューヨークで成長した。1921 年にマサチューセッツ工科大学で電気工学を学んだ。卒業の後General Electric の従業員として従事しテレビの開発に貢献し、二次放射のためのセシウム酸素銀の光電陰極などのパテントを取得した。しかし彼は物理学に特に興味を持ちはじめ、分光写真器を設計した。キャベンディッシュ研究所で原子物理学に1933-1934に従事し、J.D.Cockroft(質量とエネルギーが等価であることを実験で示した物理学者)と生涯の友情を暖めた。1934年には、ハーバード物理学部に席を移し、核質量分光法、サイクロトロンを構築することを試みた。バークレーのアーネスト・O.ローレンスは、彼の最新のサイクロトロン(「37インチ」)の詳細な図面を送ることにより援助した。1943年には、サイクロトロンがロスアラモスへ分解され送られたが返されずマンハッタン計画に利用された。
1943年5月ロスアラモスの核兵器研究所で初の核爆弾を指導した。1945年7月16日午前の初めて恐ろしいほどに成功した爆発をJ.ロバート・オッペンハイマーおよび他のものと祝い、オッペンハイマーは、これが最良のものであるとその後言った。
1945年にハーバードへ返って、Bainbridgeは、サイクロトロンを96インチのサイクロトロンに取り替える計画を立てて、正確に測定するために設計された大きな質量分析器を構築した。
Charles Thomson Rees Wilson(1869-1959)
イギリスのグレンコースに生まれた。4才の時、父を失う。母とともに、マンチェスターへ。
はじめウィルソンは医者を志してオーエンス・カレッジで生物学を学びトムソンの師でもあるスチュアートに出会い、物理学に興味をもつようになった。1888年ケンブリッジのシドニー・サセックス大学へ入学し、物理学、化学を学んで卒業、同大助手、中学教師となった。
1894年の晩夏、スコットランドのベン・ネビス(スコットランド最高峰)山頂で雲に太陽の光が当たるとき現れる現象(霧と雲に投影された色のついたリング)を見て以来、これらの自然現象を研究室内で模倣する研究に着手した。後にキャベンディッシュ研究所のJ.J.トムプソンの下の研究者になった。
1925年から1934年までケンブリッジのジャクソン大学の教授だった。霧を人為的に作成する装置である霧箱を作り、X線を放つと、空気中に生じたイオン芯のまわりで圧縮されるようになることを発見した。1896年J.J.トムソン下で、「人工雲の研究」をしていた時、X線を水蒸気タンクにあてると、霧が容易に発生する事を発見、まもなく、α線でも飛跡を確認。
1911年の終わりに、雲や霧の発生と塵の関係の研究から、イオンを中心とする霧の発生を確かめ、イオン化された粒子の軌跡の写真撮影に成功し「ウィルソンの霧箱」を完成させた。
ウィルソンの霧箱は、ウィルソンとボーテによるコンプトン散乱の反跳電子の観測(1923年)、アンダーソンによる陽電子 の発見(1932年)やミュー粒子 の発見(1936年)など、霧箱は素粒子物理学の発展に多大な貢献をしている。
ラザフォードは、「霧箱は科学史上、最も独創的で素晴らしい装置である」と絶賛した。
1927年「霧箱による荷電粒子の観察に関する研究」によってノーベル物理学賞を受賞
霧箱について
霧箱は、過飽和状態の気体中を荷電粒子が通過する時に生成する霧粒によって、荷電粒子の飛跡を観測する装置。強い磁場の中で使用され、荷電粒子の飛跡の曲率から粒子の電荷の符号や粒子の運動量を知ることができる。上空で飛行機雲が見えることがこれに相当する現象である。
過飽和状態を作るには、気体の断熱膨張を利用する方式(膨張式霧箱。ウィルソンが用いた方法)と、温度勾配を利用する方式(拡散式霧箱)がある。
<膨張式霧箱>
密封容器中にアルコールとアルゴンなどの混合気体を封入して飽和状態に保っておき、荷電粒子の通過とともにピストンなどにより容器の体積を瞬間的に断熱膨張させる(右図の下部を短時間に落下)。膨張式霧箱の欠点は、荷電粒子の通過に同期して膨張を行わなければ飛跡を観測できないことである。
<拡散式霧箱>
膨張式霧箱の欠点を解消して、粒子が通過すればいつでも飛跡が見えるようにした霧箱で、箱の上部に溝を作りアルコールなどの液体が入れ、ヒーターで暖めて蒸発させる。この状態で容器の下部をドライアイスなどで冷却すると容器の中には強い温度勾配が出来るので、蒸発したアルコールは下部に向かって拡散するが、温度勾配の大きい容器の中央付近では過飽和状態となるので、この領域を通過した荷電粒子の飛跡を観測される。拡散式霧箱は連続観察には適しているが、測定範囲が限られている事、感度を一様に保てないなどの欠点がある。
Hans Albrecht Bethe(1906-2005)
ベーテはドイツのシュトラスブルク(現フランス領)に生まれたドイツ系アメリカの物理学者である。フランクフルト、ミュンヘンの両大学に学び、ケンブリッジ大学、ローマ大学に留学してゾンマフェルト、ラザフォード、フェルミら当代超一流の物理学者の指導をうけた。ドイツで教職に就いたが、1933年ナチス政権が成立したのを機にドイツを脱出し、イギリスに渡り、さらに1935年にはアメリカへ移り、以来コーネル大学で教鞭をとった。荷電粒子の水素原子電離・励起の計算し、これが後に宇宙線の霧箱中での電離損失の計算に用いられた。恒星の核融合エネルギー理論、熱核反応における炭素サイクルの考案し、太陽のエネルギー源としての核融合理論の構築し、C−Nサイクルと呼ばれる核反応が進行、4p→α+2e(陽電子)となることを示した。
「原爆の父」であるオッペンハイマーに招かれ、ロスアラモス国立研究所の初代理論部長として原爆開発で指導的役割をつとめ(1943年同研究所物理学部長)、以後も水爆開発やアメリカ大統領科学諮問委員として、アメリカ科学界の重要な政策にかかわった。 打倒ナチスを目ざして開発した原爆は広島に投下された。「想像以上の威力だった。二度と繰り返してはならないと感じた」ことから、戦後は一貫して核軍縮を支持し、トルーマン大統領が水爆開発を決断した1950年に反対声明を発表したほか、部分的核実験禁止条約(1963年)の交渉団にも加わった。
1997年には、クリントン大統領に書簡を出し、水爆などの研究が核軍縮の流れに害を及ぼすとして、「米国はいかなる種類の大量破壊兵器の開発からも手を引くと宣言する時だ」と訴え、2003年1月イラク戦争反対声明に加わった。
ベーテの研究は原子構造、原子核構造と反応、固体物理と広い範囲に及び、量子力学全般にわたる数学的研究を行った。恒星のエネルギー源としての核融合反応、核物質の理論、場の理論に大きく貢献した。
1967年 「核反応理論に対する貢献、特に星におけるエネルギー発生に関する発見」によりノーベル物理学賞受賞
ミリカンはアメリカのイリノイ州に生まれ、オハイオのオバーリン・カレッジを卒業、コロンビア大学で学位を取得したのちドイツに留学。ドイツではベルリン、ゲッティンゲンの両大学に学んで帰国、マイケルソンに招かれて1910〜1921年までシカゴ大学教授をつとめ、さらに1921〜1946年までカリフォルニア工科大学の創設に尽力して教授をつとめ、ノーマン・ブリッジ研究所所長となった。
1909〜1916年 電子の電荷の精密測定を行った。従来の水滴法に対し油滴法を考案し、非常に精密な値を得ることに成功した。H.フレッチャーとともに共同実験したが自分だけの名前で論文を発表した。この測定で、 38回の測定から7つの測定値を捨て去り、データ操作が行われたことをミリカン自身が認めている。
1920年極短紫外スペクトルの研究でミリカン線を発見、1930年代の宇宙線研究の基礎を築き、「宇宙線」はミリカンによって提案されたが、自説を強調しては相手を攻撃し、結局間違えであることが判明すると、そっと隠れるということを2度も行っていた。
1923年「電気素量および光電効果に関する研究」によりノーベル物理学賞受賞
Max Karl Ernst Ludwig Planck(1858〜1947)
ミュンヘン大学で数学と物理学を学び、1879年に熱力学の学位論文で博士号を取得。ベルリン大学でキルヒホフとヘルムホルツの指導をうけた。1885年、キール大学の物理学員外教授、1892年にはベルリン大学の教授に昇進したが、キルヒホフの後継者として1930年カイザー・ヴェルヘルム研究所の所長に任命されるも、ナチスのユダヤ人科学者に対する処遇に抗議して辞職。
1945年、同研究所はマックス・プランク研究所と名を変えてゲッティンゲンに移り、プランクは再び所長に任命されて生涯その地位に留まった。ナチスの支配下のドイツに留まり、長男は1916年第一次世界大戦で戦死し、二男はヒットラー暗殺未遂事件に関係し1944年処刑された。
プランクは黒体放射を研究。黒体から放射されるエネルギーの波長に対する分布を、温度の関数として求めようとした。1900年に物体から放射される電磁波のエネルギー分布は不連続であり、ある値(量子)の整数倍の値だけをとると考えプランク定数を提唱した。この理論は量子論の基礎になった。
1905年のアインシュタインによる光量子説によってプランクの理論の正しさが裏付けされ、熱力学と量子論に重要な役割を果たし続けた。1913年のボーアの原子理論、1926年の量子力学につながり、量子の概念は現代の物理学のあらゆる面に影響を及ぼすことになりプランク定数なしに現代物理は成り立たない。
1918年「量子論による物理学進歩への貢献」によりノーベル物理学賞受賞
Wilhelm Wien(1864-1928)
ヴィーンはドイツの物理学者で、ガッフケンに生まれた。ゲッティンゲン、ハイデルベルク、ベルリンの各大学で学び、ベルリン大学で1886年学位を取得し、国立物理工学研究所に入所、初代所長のヘルムホルツに1822年師事した。
1896年アーヘン大学、1899年ギーセン大学、1900年ビュルツブルク大学、1920年ミュンヘン大学の各大学で教授を歴任。1893年黒体放射について波長と温度の関係であるヴィーンの変位則を発表した(強度が最大の波長と物質温度の積が一定という法則)。放射線の短波長部分の放射式を発見し、レーリーの導いた長波長側の放射式とともに、後のプランクの量子力学仮説への先駆をなした。
黒体放射研究の他に陰極線、X線、流体力学などの研究も行い、『実験物理学大系』(全26巻)をハルムスとともに監修した。
1911年「熱放射に関する法則の発見」によりノーベル物理学賞受賞
Philipp Eduard Anton von Lenard(1862-1947)
レーナルトは酒造家の家庭に生まれた。1883年ハイデルベルクで R.W.Bunsenの講義を聴いたのがきっかけとなり、ブダペスト、ウィーン、ベルリン、ハイデルベルクの各大学で物理学を学んだ。1886年にハイデンベルグで博士号をとった。
ハイデルベルク大学ではブンゼン、ヘルムホルツ、ケーニヒスベルガー、クィンケら、当代随一の物理学者から理論・実験の指導を受けた。ボン大学でヘルツの助手をつとめ、ハイデルベルク大学理論物理学教授、キール大学教授をつとめた後、クィンケを継いで1907年ハイデルベルク大学実験物理学教授となり1931年の退官まで24年間つとめた。
レーナルトの最大の業績は陰極線研究である。ヘルツが陰極線が金属箔(はく)を通過することを発見、レーナルトは1892年に陰極線を金属箔を張った放電管の窓から外に取り出すことに成功し、種々の物質への吸収を研究した。
陰極線の本性について、ヘルツとともに1880-1894年にかけて光のような電磁波(エーテル波)説をとっていた。1895年陰極線について「・・・すべての物質の種々の原子は、成分の同じものが違う数集まってできている・・・」。これをダイナミド(Dynamiden)と呼んだ。つまり物体は重量に比例した数のダイナミドからできていて、ダイナミドは、正確に同一重量・同一質量であり、結合の如何により互いに重量および質量に影響を及ぼさないものとされている、という。
W.K.Roentgen によるX線の発見(1895年)はレーナルト管を使用したと思われにも係わらず Roentgenが彼の名を引用しなかったため、レントゲン線という呼称を拒否し、いまだX線をレーナルト線と呼ぶ人もいる。
レーナルトは、ナチス政権を支持し、ヘルツ、ケーニヒスベルガーらユダヤ人恩師がいたにも係わらずユダヤ人を排斥。アインシュタイン、ハイゼンベルク等の学者迫害の中心人物であった。アインシュタインなどの研究を「ユダヤ物理学」と呼び、「ゲルマン物理学」を誇示した。 1920年にはドイツ科学者医学者協会の年会で、一般相対論を反ユダヤ主義的に批判している。
1905年「陰極線の研究」によりノーベル物理学賞受賞
Sir William Crookes(1832-1919)
クルックスは、ロンドンに洋服仕立屋の子として生まれる。チッペナムの中学時代の15歳から科学的経歴が始まった。自分で実験室を作り、目にすることができた科学の本を読んだという。オックスフォード大学のラドクリフ研究員だった。
クルックス管(圧力が10−6atm程度の真空放電管で、放電で縞模様が消え、管内が暗くなり青紫色になる)を発明し、高真空放電実験を1873年から開始。タリウムの原子量を調べる過程で(1861年元素タリウム(Tl)の発見者)、大気の浮力を避けるため、真空中で精密に秤量するよう排気した金属箱の中で、加熱した物体を秤量すると、秤の不規則な動きが現れた。この現象を解明するためにラジオメーター(下左写真=光をあてると、4枚ある雲母の羽根の黒く塗られた片面は光を吸収して温度が上がり、その表面付近では容器内の気体の分子運動が活発になり、羽根の面に分子衝突による圧力が他面と差を生じて塗られていない面を前方にして羽根は回転を始める装置)を発明した。当時羽根車を回転させるのはエーテルによるという考えが主流であったが、放電管内を高真空にすると回転しなくなった。この実験から、放射物質が直線的に進み、固体物体に進路を妨げられと影を作り(下右写真)、小さい車輪をまわし、磁石によって曲げられことを立証し、1874年陰極線が負の電荷を持つ微粒子であることを確認した。
1870年から4年間心霊現象の研究をしている。また、スピンサリスコープ(spinthariscope)を考案した。スピンサリスコープは、拡大レンズを用いてシンチレーションを観察、計数する装置であり、α粒子が硫化亜鉛製のスクリーンで作り出す瞬間的な流れ星のような輝きが見られるもので、単位時間に放射されるα粒子の数を数えることができる。ラジウムについての研究はクルックスの最後の仕事であった。
ラジオメーター 十字型の金属板が影を作る
Eugen Goldstein (1850-1930 )
ゴールドシュタインはグライヴィッツ(現在のポーランド)で生まれ、ブレスローとベルリンで学んだ。
真空放電を研究したドイツの物理学者。真空放電管による負極から発せられる流れが陰極線である。陰極に穴を開けておくと放電管内の正イオンが陽極に流れる。これを陽極線というが、ゴールドシュタインが陰極線、陽極線と命名した。
1878-90年ベルリン観測所で働き、ポツダム観測所の天体物理学セクションの責任者に任命された。
1876 年に陰極線が影を投げることができること、光線が陰極の表面へ垂直に出されることを示した。また陰極線が磁界から影響を受けることを示した。
1886年陽極に穴を開けて実験したところ黄色い流れのあることを観測しこれをカナル線(陽極線)と名付けた。後にカナル線が金属、酸化物に当たると明るいスペクトルを示すことを観測した。
1928年の論文によると、窒素、水素を封入した放電管内でアンモニアの飛跡を観察している。陽極線は後に質量分析器で原子核の質量を測定することに利用されている。
Sir Joseph John Thomson(1856-1940)
ジョセフ・ジョン・トムソンはイギリスのマンチェスターに生まれた実験物理学者。1870年にオーエンス大学、マンチェスターに入学、1876年にトリニティー・カレッジに入学。マンチェスター大学では工学を学び、1876年ケンブリッジ大学で物理学を修めた。
1880年数学学位試験で次席になり、X線の性質と希薄ガス中の放電がはじめの研究であった。数学・物理学で鍛えられたトムソンの最初の成果は「渦環の運動について」、「力学を物理と化学に適用することについて」という論文だった。
キャベンディッシュ研究所所長レイリーのもとで研究、ロイヤル・ソサエティ会員となり、1884年レイリーのあとを継いでキャベンディッシュ研究所教授、同所長となった。
1896年気体中の放電で「陰極線」を研究し、1897年この放射線が物質粒子であるとの結論に達した。
「これらの粒子はいったい何だ。原子なのか分子なのか、それとも一段と精緻な熱平衡状態にある物質なのか」と自問し、粒子の質量 m と陰電荷 e との比m/e の値を求めた(これは現在知られている電子の比電荷の逆数である)。トムソンはこの値が気体の性質に無関係で、この値はこれまでの比率の最小値として知られており、・・・ごく小さいものであること」を発見した。
「トムソンは早くから原子が電気的な構造をしていて、電気力で結びつけられているに違いないと考えており、一般的な方法で元素の周期的に示された元素の物理的、化学的な特性の変化についての解釈の仕方をいくつか示している」と弟子のラザフォードが語っている。
トムソンは近代原子物理学の黎明期のキャベンディッシュ研究所の中心人物であり、弟子にはラザフォード、ランジュヴァン、ウィルソンらその後の原子物理の発展に功績を残した多数の原子物理学者がいる。19世紀末から20世紀初めにかけて、世界各国から集まったキャベンディッシュのトムソンのもとの集団研究が、今日の原子物理学の始まりといわれる。
電子の回折現象を発見して電子の波動性を確立したG.P.Thomsonは息子である。
1906年「気体の電気伝導に関する理論的および実験的研究」によりノーベル物理学賞受賞
Heinrich Geissler(1814-1879)
ドイツのイゲルシープに生まれた。ガラスの吹工を学び科学器械の製法に長けていた。
1854年ボンに物理・化学器械工場を設立した。マソン、J.P.ガシオによって作られた真空放電管に続いて、精巧なガラス放電管を作成した。
プリュッカーの指導の下1857年水銀ポンプを作成、1858年にガイスラー管と呼ばれる真空放電管を作成し、真空放電研究に貢献した。ガイスラー管の制作がクルックス管の放電実験に引き継がれ、それが電子の存在ひいては原子構造の解明に貢献することになるとは思いもしなかったであろう。
Albert Einstein(1879-1955)
ドイツのウルムでユダヤ系ドイツ人として生まれた。父は発電機・測定器械などの工場を経営していたが不景気で倒産し、一家はイタリアのミラノに移住。アインシュタインはギムナジウム在学中であったため寄宿舎に残った。1895年スイスのアーラウの州立学校に入学。
1896年 スイス連邦工科大学に入学し数学、物理学を学ぶ。
1901年 チューリッヒの市民権を得る。最初の論文「毛細管現象からの二、三の帰結」を発表。代用教員を経てベルンのスイス特許庁技士の職に就く。
1905年 光量子論、ブラウン運動の理論、特殊相対性理論を発表。翌年「分子の大きさの新しい決定」でチューリヒ大学で学位を取得。
1911年 光の進路に対する重量の影響についての論文を発表。プラハ大学教授に就任。ソルヴェー会議でポアンカレ、ランジュバン、マリー・キュリ、プランクと交わる。
1916年 一般相対性理論を完成。1919年皆既日食でイギリス観測隊が一般相対性理論から予測による重力場での光の屈曲を確認。
ドイツの敵国であるイギリスの学者たちが認めたため有名になった相対性理論を受賞対象とすることが政治的問題化することを避け光電効果を受賞対象とした。
1922年 哲学者西田畿多郎、理論物理学者石原純の勧めで雑誌「改造」により日本へ招聘。
「私は、小泉八雲の著書によってはじめて日本を知り、その国民性には深く共鳴しています。日本を一度訪問してみたいとは思っておりました。・・・私は相対性理論の知識を日本の人に与えるとともに、また日本からも何物かを得て帰りたいと思っています。私の学説はすべて確信の上に立っていますが、それでもどこかでさらに新しい発見があるかも知れないと思って、今なお怠らずにそれを研究し続けています。私は日本に一ヶ月余り滞在する予定ですが、その間も研究に費やしたいと思います」と語っている。
1933年 ヒットラーが政権につく。ナチス政府はアインシュタインの名誉市民権を剥奪、財産を没収しその首に50,000マルクの賞金をかけた。アメリカのプリンストンに渡り高級研究所終身所員になる。
1939年 ウラン核分裂がドイツに軍事利用されることを危惧し、ウラン問題の研究をルーズベルト大統領に提言。原子爆弾開発計画の契機となった。1940年アメリカ市民権を得る。
第二次世界大戦後は1950年水素爆弾反対、1955年ラッセル・アインシュタイン声明に署名など軍備に反対し、核兵器絶滅と世界平和に積極的に働いた。
1921年「理論物理学の諸研究、特に光電効果の法則の発見」によりノーベル物理学賞受賞。
相対性理論とは
古典力学での絶対空間、時間の考えを否定して「物理法則はあらゆる座標系に対し同じ形式で表される」ことを基本とし、一相対性理論と特殊相対性理論がある。
特殊相対性理論
相対性原理を互いに等速直線運動をする座標系に適用したのが特殊相対性理論
(1) 互いに等速度運動する二つの座標系では、すべての物理法則は全く同様に成り立つ(特殊相対性原理)
(2) 光速度は、光源や観測者の運動状態には無関係に一定である(光速度不変の原理)ことを基本とする。
この理論により媒質(エーテル)の存在が否定され、空間・時間の観念は座標系(観測者)に相対的になり、二つの慣性座標系の時間・空間座標はローレンツ変換によって結びつけられるため、運動する物体の長さは運動方向に縮み、運動する系での時間は伸びる。またエネルギーEとの間にE=mc2(質量とエネルギーの等価原理)の関係が成り立つ。
一般相対性理論
互いに加速度運動をする一般の座標系に拡張したのが一般相対性理論。
互いに加速度運動を行う一般座標系に拡張した一般相対性原理(あらゆる座標系に対しすべての物理法則は同じ形で表される)、
等価原理(一様な重力場と、慣性座標系に対して一様な加速度で動く座標系とは物理的に同等である)を基礎に、重力場を物質のまわりに生じた時・空間のひずみとして表現した。
水星の近日点の移動、太陽のすぐそばを通る光線が曲がること、質量の大きい恒星からくる光の波長が伸びること(赤方偏移)などが導かれ、実測と一致した(上記1916年)。
Niels Henrik David Bohr (1885-1962)
コペンハーゲンに生まれ、コペンハーゲン大学に入学して物理学を学んだ。母校で金属電子論に関する研究で学位を得た後に、水の表面張力の研究をし、1906年にデンマーク科学アカデミーの金メダルを受賞。1911年には、金属中の電子の振る舞いを説明する理論で博士号を取得。
ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所に留学し、ここでJ.J.トムソンについて研究、続いて1912年マンチェスター大学のラザフォードのもとに移って原子構造の問題に取り組み、物質によるα線のエネルギー損失の計算を行った。
1913年 ボーアはラザフォードの原子模型にマックス・プランクの量子仮説を導入して水素のスペクトル系列の説明に成功し、さらに定常状態という概念を考えて量子条件、振動条件によってボーアの原子構造論を打ち立てた。量子という概念を初めて適用して原子構造を解明した功績はきわめて大きかった。
1916年 母校コペンハーゲン大学教授となるが、「対応原理」を提唱して前期量子論に、次いで「相補性原理」を提唱して量子力学の建設に貢献した。
1921年 理論物理学研究所が設立される。彼を中心としたこの研究所の自由な学風は「コペンハーゲン精神」として世界中の物理学者の憧れとなった。日本からも仁科芳雄をはじめ優秀な研究者が戦前、戦後を通じてこの研究所にやって来ている。
元素の周期律の理論で予測した新元素がボーアの研究所で発見され、ハフニウムと命名されている。
1940年 ドイツ軍のデンマーク占領直前に英国へ逃れ、渡米して原爆製造計画に参加。大戦後は原子力の平和利用や国際管理に努力した。ボーアはアインシュタインとも論争を繰り返したことでも知られる。
1943年 第二次世界大戦のドイツ占領下のデンマークを脱出。イギリスを経てアメリカに渡り、ロス・アラモス研究所でマンハッタン計画に参加して原爆開発計画に協力した。1945年帰国すると原子力管理問題に取組んだ。
1952年 スイス・ジュネーブにあるヨーロッパ連合原子核研究機関(CERN)の創立に助力、北欧理論原子物理学研究所の創立に助力し、1957年最初の原子力平和利用賞を受賞した。
息子のオーゲ・ボーアは父の原子核モデルを発展させ、1975年ノーベル物理学賞を受けている。
1922年「原子構造とその放射に関する研究」によりノーベル物理学賞受賞
Arthur Holly Compton(1892-1962)
コンプトンはアメリカのオハイオ州ウースターに生まれた。地元のウースター大学からプリンストン大学に学び、講師、技師を経てケンブリッジ大学で研究、1920年ワシントン大学物理学部長、1923年シカゴ大学教授、1945年ワシントン大学総長となった。
1923年 X線の電子による散乱の実験で、散乱X線の波長が長くなることを観測した。これを光子と電子の衝突とみなしすとうまく説明できること、つまりX線にもアインシュタインの光量子説を適用できることを示した。
1934年 にはアメリカ物理学会会長、1942年にはアメリカ科学振興協会会長を務めるなど、アメリカ科学界の指導者として活躍。原子爆弾の開発研究に従ってその指導的地位にあり、その使用決定にも参加した。マサチューセッツ工科大学学長だった兄であるK・コンプトンも原爆開発にかかわった。戦後も原子力開発研究の指導的立場にあった。
コンプトンはK・コンプトンとともに象限電位計を改良したり、X線の全反射や偏光などについて研究したX線研究の後に宇宙線に研究対象を転じ、宇宙線の中には銀河系より遠くから来るものがあることをつきとめている。また、宇宙線の強度分布を世界各地で測定してそれが緯度により変化することを確認している。
1927年「コンプトン効果の発見」によりノーベル物理学賞受賞
Wilhelm Konrad Roentgen(1845-1923)
レントゲンはドイツのライン地方の都市レネップに生まれ、3歳のとき一家がオランダに移住したため初等教育はユトレヒトでうけている。1865年大学はスイスのチューリヒ工業大学に学び、ビュルツブルク大学でクント(音の実験で知られる)の助手をつとめ1879年 ギーゼン大学、1900年ミュンヘン大学教授。
1870年頃 から気体の比熱、液体の圧縮率を研究した。
1895年 レントゲンは高度に排気したガラス管に誘導コイルを用いて高電圧をかけ、陰極線の現象を研究しているとき、1メートルほど離れた場所にたまたま置いてあったシアン化白金バリウムの結晶が蛍光を発していることに注目。この蛍光の原因が放電管から生じている未知の放射線によるもので、不透明な種々の物質を透過、写真乾板に対して感光作用のあることが判明し、この放射線が普通の光線とは違って、横波ではなく「エーテル」における縦波であろうと推測しこの放射線をX線と命名した。
レントゲンはほかにも毛管現象、結晶の熱伝導、気体の赤外線吸収、偏光などの研究もしている。
1901年「X線の発見」によりノーベル物理学賞受賞
George Paget Thomson(1982-1975)
ジョージ・パゲット・トムソンはイギリスのケンブリッジに物理学者J.J.トムソンの子として生まれた。
ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジを卒業し、1922年アバディーン大学、1930年ロンドン大学の各教授となっている。アバディーンでは電子が粒子であることともに波として振る舞うことを金属の薄膜を使って実験し、1927年、X線におけるデバイ−シェラー法を応用してド・ブロイの提唱した電子の波動性を実証した。
1940〜1941年にはイギリス原子力委員会議長、1952〜1962年ケンブリッジ大学コーパス・クリスティ・カレッジ学長をつとめた。この時期に核物理学に関心を持つようになり、中性子によるウランの分裂が1939年の始めに発見されたとき、実験のために1トンの酸化ウランを調達するようにイギリスの航空省を説得した。
1940年から英国の原子力研究委員会の議長として核兵器開発を指導し、1941年に原子爆弾の可能性を指摘して、アメリカの原爆開発にも協力した。第二次世界大戦中はカナダのオタワにいて、戦後帰国、重水素の核反応の研究に携わり、1946年には重水素の原子力の可能性に関心を持つようになり、水爆の開発にも役割を果たしている。
1937年「結晶による電子線回折現象の発見」によりC.J.デービィソンとともにノーベル物理学賞受賞
菊池正士(1902-1974)
理化学研究所初代所長の菊池大麓の次男として生まれた。
1926年東京帝大卒業業後、理化学研究所に入った。
八木アンテナで知られる八木秀次の勧めで原子核物理学を研究をはじめた(八木は大阪帝大の初代総長だった長岡半太郎に招かれ初代主任教授に就き、八木は湯川秀樹に量子力学に研究を勧めた人物である)。
デビソンとガーマーの発見、G.P.トムソンがセルロイド、金属(Au,Pt、Al)の薄膜で電子ビームによる干渉像の発見に続いて、1928年 菊池正士は薄い雲母の単結晶を透過した電子線による菊池図形とよばれる干渉模様を得た。
1934年 大阪帝大教授に就任。中性子を使った原子核の実験を行った。日本原子力研究所理事長、東京理科大学学長を歴任した。
1951年文化勲章を斎藤茂吉、武者小路実篤、柳田国男らとともに受賞
Ernest Rutherford(1871-1937)
1871年ニュー・ジーランドに、スコットランド出身の車大工で農夫の父とイギリスで教師をしていた母との12人の子供の第4子として生まれた。早くから数学などに才能を表し、1889年に奨学金を得てクライストチャーチのカンタベリー大学に入学。高周波放電による鉄の磁気的性質を研究し、電磁波の高感度検出器を組み立てている。
1893年 数学・物理学の両分野で最優等生となり修士号を得た。1895年 奨学金によりケンブリッジ大学に留学、キャベンディッシュ研究所のJ.J.トムソンのもとでX線による気体の電離を研究し、1898年にカナダのマッギル大学のマクドナルド研究所に招かれると翌年、ラジウムの放射線からα線、β線を発見した。α粒子がヘリウムの核であることを発見。
1902年 ソディとともに原子の自然崩壊説を発表。
1908年ガイガー、マルスデンとともに金箔にα線を当てた散乱実験によって原子に核があること、原子の大きさ、電荷などを確認した。これをもとに、1911年α粒子散乱の研究より原子の中心に小さな核があるという「ラザフォードの有核原子理論」を発表。1913年にボーアとともに太陽系に似た「ラザフォード・−ボーア模型」(原子構造−原子模型 参照)を提案した。
1919年最初の原子の人工的崩壊となったα粒子による原子核の人工転換(原子核24-5式参照)に成功し、同年ケンブリッジ大学教授兼任キャベンディッシュ研究所所長に就任した。
1920年にはロイヤル・インスティチューション教授、その頃に重水素の存在を予言し、中性子の存在を予想した。
1925年に王立協会会長となり、メリット勲章を受け、1931年には初代ラザフォード・オブ・ネルソン男爵となった。ガイガー、ブラケット、チャドウィックなど著名な物理学者を輩出した。
1908年「元素の崩壊および放射性物質の化学に関する研究」によりノーベル化学賞受賞
Max Theodor Felix von Laue(1879-1960)
ラウエはコプレン近くのプファッヘンドルフに生まれたドイツの理論物理学者で、ストラスブール大学、ゲッティンゲン大学、ミュンヘン大学に学び、1912年チューリッヒ大学、1914年フランクフルト大学、1919年ベルリン大学の各教授をつとめた。ことにベルリン大学ではプランクの指導をうけ、ここで学位を取り、プランクの助手となった。1951年からマックス・プランク物理化学・電気化学研究所所長を歴任している。
光のエントロピー問題、相対性理論などの研究を行ったが、1912年クニッピング(P.Knipping)らの協力によりX線回折を発見しX線が波長の短い電磁波であることを示した。さらにX線分光学、X線結晶学の分野を拓いた。ラウエの最大の業績は、ラウエ斑点(はんてん)とよばれるX線の回折縞を得たことである。水晶の結晶格子が原子的に規則的配列をしていることに着目し、この格子によって回折像を初めてを得た。ラウェの実験法は結晶が固定されているので、入射X線の内の特定波長だけのものが、結晶の格子面でブラッグ反射条件を満たして回折するという特徴を持っている。
また、熱伝導、超伝導、常磁性体、天体物理学などの研究もしている。
1914年「結晶によるX線回折研究」によりノーベル物理学賞受賞
長岡半太郎(1865-1950)
長崎県大村に生まれた。東京帝国大学理科物理学科を卒業。大学では菊池大麓(電子波の回折像を研究した菊池正士の父)らに教えを受けた。大学院に進学した。1887年卒業後直ちに助教授になった。磁気ひずみの実験的研究で98年に長岡・本多効果を発見した。
1893年理学博士号を取得。ドイツ、オーストリアへ留学。ヘルムホルツ、プランク、ボルツマンらに師事。留学中にポアンカレの講演を聞き、「原子の構造を研究するのはそれぞれ固有のスペクトルに注目すべきである」との話に大きな刺激を受けた。
1896年に帰国後、母校の教授となった。光学、流体力学、数理物理学、実験物理学、地球物理学など多方面の分野を開拓し、日本の物理学の創始者である。
1903年、土星の環の研究にヒントを得て、正に帯電した小さい核心のまわりを電子が土星の環のようにまわるという「土星型原子模型」を東京数学物理学会で「科学原子に核あり」とする論文を発表した。当時の国内はこの説に批判的だったため、1904年英国の 「Philosophical Magazine」に論文を送った。長岡によると「原子の大きさは億個を並列して僅か1cm・・・その部分を構成する電子の運動範囲は微細・・・彗星のように動く電子は少なかろう。従って熱運動で粉飛するガス分子から離れる数多ではないから、安定の大なる組織に構成されていなければならなぬ。磁性も帯び・・・回転運動もなければならない。・・・・忽然思い出したのはマックスウエルの土星論を・・・・」としている。論文によると「原子は、これら(土星)の衛星を電子群で、また吸引中心を陽電荷の粒子で置き換えることにより、ほぼ具体化されることは明白である」として原子核の語は使用してない。特記すべき事は長岡論文が、ラザフォ−ドが実験に基づいて発表した有核原子模型に先立つこと約8年も前であったことである。ボーアの原子模型に先立つ画期的なものだったが、電子は光を発して核に落ち込んでしまうという困難さがあり、実験的裏付けに欠けていたことが弱点であった。だが、長岡の投じた雑誌をラザフォードが座右に置いていたことから、少なからず影響を与えていたことは間違いないだろう。
1926年に東京大学を定年退官後、1931〜34年には大阪帝国大学初代総長、1939年〜1948学士院院長を務めた。
1937年第1回文化勲章受賞した。